硲伊之助(読み)ハザマ イノスケ

20世紀日本人名事典 「硲伊之助」の解説

硲 伊之助
ハザマ イノスケ

大正・昭和期の洋画家,陶芸一水会創設者。



生年
明治28(1895)年11月14日

没年
昭和52(1977)年8月16日

出生地
東京

別名
号=三彩亭

学歴〔年〕
慶応義塾普通部〔明治44年〕中退

主な受賞名〔年〕
二科賞〔大正3年 7年〕

経歴
本郷絵画研究所、日本水彩画研究所に学び、大正1年萬鉄五郎、岸田劉生らと「フュウザン会」を結成。2年と7年に二科賞を受賞し、画壇にデビュー。10年渡仏してマチスに師事。帰国後、春陽会、二科会会員を経て、昭和11年「一水会」を結成。戦後は日本美術会にも参加し同会委員長をもつとめた。26年頃から三彩亭と号し、色絵磁器九谷焼を作り始め、晩年の15年を石川県加賀市吸坂(すいさか)に築いた窯で制作に励んだ。同市に「硲伊之助美術館」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「硲伊之助」の意味・わかりやすい解説

硲伊之助
はざまいのすけ
(1895―1977)

洋画家、陶芸家。東京生まれ。大下藤次郎(とうじろう)の日本水彩画研究所に学び、1912年(大正1)と翌年のフュウザン会展に出品。第1回と第5回の二科展で再度二科賞を受け、会友となる。21~29年(大正10~昭和4)フランス留学。この間に春陽会会員となる。日本版画協会の創立会員。33年二科会に転じて会員となり、同年から35年まで再渡仏してマチスに師事。帰国後、二科会を脱退して一水会の創立に参加する。第二次世界大戦後、日本美術会委員長、東京芸術大学助教授となり、『ボナッティ氏像』などを発表。のち陶芸に転じて59年(昭和34)には一水会陶芸部を創設し、委員を務めた。晩年は石川県加賀市に移り住み、三彩亭の号で九谷(くたに)焼の創作に専心し、同地で没した。

[小倉忠夫]

『硲伊之助訳『ゴッホの手紙』全三冊(岩波文庫)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「硲伊之助」の解説

硲伊之助 はざま-いのすけ

1895-1977 大正-昭和時代の洋画家。
明治28年11月14日生まれ。日本水彩画会研究所でまなぶ。大正3年(1914)「女の習作」で二科賞。フランスに留学後,昭和11年二科会を退会して一水会を創立。戦後,日本美術会委員長。三彩亭と号し陶芸も手がけた。昭和52年8月16日死去。81歳。東京出身。慶応義塾普通部中退。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「硲伊之助」の解説

硲 伊之助 (はざま いのすけ)

生年月日:1895年11月14日
大正時代;昭和時代の洋画家;陶芸家。一水会創設者;日本美術会委員長
1977年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の硲伊之助の言及

【明治・大正時代美術】より

…また坂本繁二郎は,東洋的な,浪漫的な心情を,光と影の色面に表現する独自の絵画世界をつくりだした。このほか二科会は,熊谷守一(もりかず)(1880‐1977),正宗得三郎(1883‐1962),中川紀元(きげん)(1892‐1972),鍋井克之(1888‐1969),小出楢重,国枝金三(1886‐1943),黒田重太郎(1887‐1970),林倭衛(しずえ)(1895‐1945),硲(はざま)伊之助(1895‐1977),関根正二,古賀春江,東郷青児(1897‐1978)ら,大正・昭和期の洋画界をリードする数多くの新人を世に出している。 二科会結成と同じ年,前年世を去った岡倉天心の一周忌を期して,日本画の横山大観,下村観山,木村武山(1876‐1942),安田靫彦,今村紫紅に洋画の小杉放庵を加えて,開店休業状態になっていた日本美術院が,洋画部も新たに設けて再興されている。…

※「硲伊之助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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