手紙は筆と紙による通信手段である。詳しくいえば、特定の第一者(発信者)が特定の第二者(受信者)に対し、第一者の用件・意思・感情を文章、詩歌、物件などで一定の儀礼ならびに慣習に従い、第三者(配達人)を介して通達する行為である。
[服部嘉香・服部嘉修]
古代から近世まで、男子の手紙は往来、女子のは消息(しょうそこ)とよばれてきた。往来は『礼記(らいき)』の「礼尚往来」(礼は、往来を尚(たっと)ぶ)に基づくもので、消息(しょうそこ)(消えゆき、生まれきたる)と同義。ともに手紙は往信に対して返信のあるを礼とする社交意識を含んでいる。手紙の称は江戸時代からのもので、文字を書いた紙の意。中国には書簡(簡は竹札)、書翰(しょかん)(翰は鳥の羽ペン)、尺牘(せきとく)(牘は木板)、尺素(せきそ)(素は白絹)、寸楮(すんちょ)(楮は紙)、雁信(がんしん)(蘇武(そぶ)の故事)、鯉素(りそ)(呂望(ろぼう)の故事)などの称があり、故事を重んじた国民性をみせている。社交をたいせつにする日本人と、国民性の相違が現れていておもしろい。
[服部嘉香・服部嘉修]
普通書簡文、商業文、公用文の3種がある。日常往返の手紙、商業上の取引販売に用いる手紙、そして官公庁・公共団体の通達文書類である。
[服部嘉香・服部嘉修]
書簡文、準書簡文、書簡物、擬書簡がある。書簡文は文章で書いた手紙であるが、平安時代に関白藤原教通(のりみち)が小式部内侍(こしきぶのないし)へ「月」とだけ書いてやると、返事は「を」とあった例がある。「月」は月の出るころに忍んでこよの意で、「を」は応諾の返事である。文章ではないが、文章以上の含みをもつ書簡文といっていい。準書簡文は詩歌・俳句だけのもの、それらに文を交えたものなどがある。書簡物は古くは石手紙、つぶて手紙、花手紙、蒿(わら)手紙、布手紙、烽火(のろし)手紙、絵手紙などがあり、物件をもって意思互通の手紙としたものである。現代では写真電報、模写電報、ファクシミリなど通信手段に物件を用いたものがある。擬書簡は、手紙の形式に託した論文、感想文、紀行文、小説、解説文、宣伝文の類である。
[服部嘉香・服部嘉修]
大別して、社交の手紙と達用の手紙の2種に分けられる。社交の手紙には、年賀状、祝賀状、見舞状、贈答状、案内状、招待状、結婚披露状、危篤状、死亡通知状、悔み状、忌明け挨拶(あいさつ)状、旅の便り、つれづれの便りなどがある。用件の手紙には依頼状、照会状、各種通知状、催促状、感謝状、陳謝状などがある。
[服部嘉香・服部嘉修]
わが国の手紙は、国際公文書から出発した。最古のものは雄略(ゆうりゃく)天皇から宋(そう)の順帝に送った国書(478)であるが、これは帰化人の草した純漢文の尺牘体。ついで推古(すいこ)天皇が隋(ずい)の煬帝(ようだい)に送った国書「日出処天子致書日没処天子無恙。」(日出(ひい)ずるところの天子、書を日没(ひぼっ)するところの天子に致(いた)す、恙(つつが)なきや)(607)が、日本人(聖徳太子)の手による最初の尺牘体書簡である。
[服部嘉香・服部嘉修]
私用の手紙の出始めたのはこのころになってからである。万葉仮名で書かれた和文の手紙が2通、正倉院文書のなかに発見されているが、先行も後続もない。光明(こうみょう)皇后が習字手本とした「杜家立成雑書要略(とかりっせいざっしょようりゃく)」は往来体の手紙の手本ともなり、写経生の採用依頼書、欠席届、要品請求状などの啓状は尺牘体くずしの文体ともみられ、あとの時代に影響を与えている。また『万葉集』の歌の詞書(ことばがき)にある大伴旅人(おおとものたびと)ら7人の17通の尺牘文(728~749)が、実用的で文芸味豊かな私用の手紙としてもっとも古いものである。
[服部嘉香・服部嘉修]
平安書簡は物語と日記と随筆のなかにある。最古の物語『竹取物語』には手紙が5通ある。かぐや姫から帝(みかど)と竹取の翁(おきな)へ書き残した手紙は女消息として名文である。ほかに唐商のもの2通、日本の工匠のもの1通があり、いずれも今日の商業書簡文の内容を備えている。また漢詩文の隆盛を反映して唐風尺牘文を一部に収めた『本朝文粋(もんずい)』があり、これを通俗化した擬漢文体の男子往来体の文例集『明衡往来(めいごうおうらい)』(雲州消息)が次いで現れ、也(なり)文体、男性侍(はべ)り文体の範を示し、候文の片鱗(へんりん)をもみせている。一方、仮名文字、和歌、和文の普及興隆に伴い、和文体の女子消息が『源氏物語』その他の物語、日記類に雅文仕立ての名文を残している。とくに平安中期の『蜻蛉(かげろう)日記』と、後期の『源氏物語』は、漆着(しっちゃく)語である日本語の特徴を生かした名文の双璧(そうへき)で、彼女らの手紙は敬語も多く、形式も整い、侍り文体で筆短意長の趣(おもむき)がある。
[服部嘉香・服部嘉修]
貴族階級の没落と武士階級の台頭を背景として『吾妻鏡(あづまかがみ)』には擬漢文の往来体のほか、和漢混交文による武士とその妻子間の和字状があり、ともに候文の基礎となった。往来体をさらに通俗化した『貴嶺問答(きれいもんどう)』など数十種の往来物は、一面多くは物名列挙の常識読本と化した。室町時代に入ってからは、手紙の構文・形式・文体・用語・書札礼・配達・書道など、それぞれの面でいちおうの完成を示した。
[服部嘉香・服部嘉修]
手紙の文体も、町人向きの往来物、学者・武士の用いる格式ある和漢混交文と、女子一般の用いる和字状が行われた。往来物はいよいよ通俗化し、1冊の全編を1通ないし数十通の手紙になぞらえ、書簡心得、物名列挙によって童幼に知識を授ける形のものとなった。だいたい習字兼用につくられたが、明治初期に至るまで、寺子屋や市井子女の教科書となった。とくに飛脚制度による配達方法の進歩はこの期の書簡生活を目覚ましいものにした。
[服部嘉香・服部嘉修]
明治は候文の時代である。新教育の普及とともに、男子には雅俗折衷体の候文、女子には美文体の候文が行われ、文学者の作り方指導書、文範指導書が数多く出版された。個人の手紙名文家として、高山樗牛(ちょぎゅう)、大町桂月(けいげつ)、竹越与三郎、正岡子規(しき)、国木田独歩(どっぽ)、夏目漱石(そうせき)、樋口一葉(ひぐちいちよう)、与謝野晶子(よさのあきこ)らを数えることができる。明治20年代には外来のレターペーパーに模した便箋(びんせん)が巻紙とともに用いられるようになった。大正は口語文体の時代で、男女の文体は接近し、文房具も巻紙と毛筆から便箋とペンへ移行した。
[服部嘉香・服部嘉修]
昭和に入り、候文減少、口語文増加の傾向が強まったが、1931年(昭和6)満州事変勃発(ぼっぱつ)以後、太平洋戦争にかけ、日本的なものが回顧され、公用、商用、私用に、ともに毛筆、巻紙、候文が復活し、ことば遣いも一段と堅くなったが、45年敗戦以降の、日本の意志伝統は無視され、不完全な当用漢字、現代仮名遣いの実施、法則のあいまいな送り仮名、官庁が先んじた口語文体の不用意な採用などの大勢に押し流されて、未曽有(みぞう)の国語混乱を繰り返しつつあるので、候文は消え、口語体手紙文一方になってはいるが、時代感覚を反映した新文体はまだ形を整えていない。本文、封筒表書き、葉書などに横書きが目だってきたが、まだ法則らしいものはない。
[服部嘉香・服部嘉修]
手紙は古代エジプトやバビロニア時代から存在したが、粘土板に刻む不便さから大半は公用文書だった。その点エジプトではパピルスの発見で日常的な書簡が多いのが目だつ。
手紙の数は郵便配達制度の整備によって増えるが、この制度は広大な領土や植民地をもつ強力な国家のなかで発達した。だから、文化度は高くても都市国家という小さな社会で自足していた古代ギリシアよりも、各植民地間の連絡が複雑な行政と軍事制度の枢要部分となった古代ローマ帝国のほうが、郵便配達制度(クルスス・プブリクス)が発達した。1日272キロメートルの速度で郵便を急送するなど、実に優れた制度で、19世紀になるまでこれをしのぐ郵便配達制度はヨーロッパでは出現しなかった。皇帝の勅命などローマ公用郵便の文体は、個々のケースから一般原則を引き出して断を下す点で、たとえば使徒パウロの書簡からローマ教皇の司教通達などに受け継がれていく。またキケロ、セネカ、小プリニウスなどの書簡の文体、そしてオウィディウス、ホラティウスらの書簡詩は以後のヨーロッパ文人の模範になっていった。ローマ人は羊皮紙やパピルスのほかに、板に蝋(ろう)を塗って、その上にスティルスという鉄筆で手紙を書くという方法も用いた。彼らはこの鉄筆を護身用のナイフとしても使ったが、のちにこれはスタイルという語の起源となった。
[越智道雄]
中世はギルドの発達で商用郵便が急増し、各ギルドがメッセンジャー制度をつくった(たとえば肉屋ギルドのメッツガー・ポスト)。商業の国際化は宗教の時代中世においてすら宗教の壁を貫き、ベネチアは、コンスタンティノープルとの交信ルートがペルシア領内を通過する許可までペルシア王から獲得している(1320)。さらに中世後期には郵便への需要が高まり、郵便制度がギルドから独立して自前の事業になった。タキシスTaxis家は16世紀に2万人の飛脚を擁して全欧の郵便網を押さえていた。しかしこの盛況に目をつけた各国政府は、以後しだいに郵便網の国家独占を図り始めた。その傾向は18世紀後半の駅馬車、19世紀なかばの鉄道・汽船、20世紀前半の航空機などの配送機構の導入を可能にしていく。そして19世紀前半にイギリス人ローランド・ヒルが郵便料金の距離制を廃止し、距離にかかわらず一律料金とし、糊(のり)付き切手を貼付(ちょうふ)する制度を開発した結果、郵便実務の単純化・能率化が加速され、国際郵便連盟(UPU)も19世紀後半に結成され、郵便配達網の国際化が始まった。
さて、著名な文人や政治家の書簡は後世に残りやすいが、ごく普通の人々の書簡はめったに残らない。その点で貴重なのは「パストン家書簡」(1422~1509)である。中世後期のイギリス中産階級の一族が家族間で取り交わしたこの手紙類は、まったくの俗事が内容になっていて、彼らの日常がつぶさにうかがえる。
中世は一般に商用書簡が多く、文学的書簡の乏しい時代だった。しかし同時に感情豊かな時代でもあった。中世のこの別な側面を代表する手紙は、12世紀の有名なフランスの悲恋カップル、アベラールとエロイーズが、仲を裂かれて僧院と尼僧院からやりとりしたラテン語の書簡集だろう。
ルネサンス期の代表的書簡集は、イタリア人文主義の先駆者ペトラルカの『無名書簡』(1360)ほかの書簡集だといわれる。この時期の書簡はおもにキケロや小プリニウスの書簡が模範になった。
[越智道雄]
書簡詩の伝統は、18世紀イギリスの詩人アレグザンダー・ポープにおいて頂点に達する。彼はオウィディウスやホラティウスを手本としていくつかの作品を残したが、その最高傑作は『アーバスノット博士書簡集』(1735)で、友人の医師とのやりとりの形を借りて同時代の文人を揶揄(やゆ)したもの。また散文の書簡体作品としては、ほぼ同時代のイギリス作家サミュエル・リチャードソンの『パメラ』(1740)が有名である。書簡体が文学のスタイルになったのは、18世紀に郵便配達制度の整備が進み、用件以外のむだ話を書く余裕ができ、親密なやりとりが一般人の間でも可能になった結果だった。手紙の書き方の模範になったものに、17世紀フランスの社交界に生きたセビニェ夫人の書簡集がある。イギリス貴族の生活がうかがえる意味で有名なのが、息子にあてて約30年間書きつづけた、チェスターフィールド伯の『息子への手紙』(1774)である。
[越智道雄]
中国では早くも周の時代(前11世紀~前249)から郵便制度が発達し、漢時代にはローマ帝国と接触していた。13世紀マルコ・ポーロは、元(げん)の郵便制度の整備ぶりを紹介、当時のヨーロッパにはこれをしのぐものがないとしている。また新大陸アメリカの郵便配達制度では、バファロー・ビルらの活躍したポニーエクスプレスがもっとも早い配達網として有名だが(3136キロを8日間で走った)、これは大陸横断電信網の完成でわずか1年(1860~1861)で使命を終えた。
[越智道雄]
手紙には文章の部分と文章でない部分とがある。
正格文の21要素は複雑なようであるが、骨子は前付(まえづけ)、本文、副文の3部、その本文は頭語、前文、主文、末文、結語の5部で組立ては簡単である。もっとも略式にした破格文は、頭語、主文、結語(もしくは単に主文と結語)、日付、署名、宛名(あてな)、敬称の7要素または6要素ですむ。今日では親しい間柄か、きわめて簡単な場合のほか、粗略にすぎてよくない。ひととおりの形としては、頭語、前文(の2、3項)、主文、末文(の1、2項)、結語、日付、署名、宛名、敬称の九要素ぐらいであろうか。前付の部分を本文のあとに書いた場合後付(あとづけ)となる。校長、社長、常務、課長などすべて職名であるから敬称である。「御中」は様、殿と同格の敬称だから宛名と同じ大きさに書くのが正しい。
[服部嘉香・服部嘉修]
文章である部分は、初めに頭語を置く。明治・大正のころまでは「拝啓」「謹啓」と書き出し、現代手紙では「吉野先生」「父上様」など呼びかけの挨拶(あいさつ)が書かれるが、それも省くことがある。時候は決まり文句よりも時に応じ事につけての生きた挨拶にしたい。安否は相手の無事か否かを心から尋ねるのが礼である。自分のほうは一同無事ぐらいにする。主文は1通の手紙の主体となるところ、はっきりと要領よく敬意を失しないように書く。末文はこの手紙の趣意は何かという点を明らかにする収結の挨拶である。副文は本文よりすこし小さめに書くのが慣習である。吉凶の手紙には忌みことばがあるので注意したい。
[服部嘉香・服部嘉修]
無罫(むけい)便箋は前後同寸、2、3センチメートル空き。
[服部嘉香・服部嘉修]
有罫便箋は罫線内を上下とも半字ぐらい空けて書くと形がよく見える。無罫では上を3、4センチメートル、下はその3分の2ぐらい空ける。
[服部嘉香・服部嘉修]
本文の第1行は「拝啓」の下を全部空けるか、1、2字空きにする。
[服部嘉香・服部嘉修]
本文が行の上部で終わったときは、2、3字隔てて「敬具」と書く。
[服部嘉香・服部嘉修]
日付は第2行に3字下りから書く。ただし、脇付(わきづけ)のある場合は、第3行目から書く。
[服部嘉香・服部嘉修]
宛名は第1行目、本文より1字下がり、日付よりは1、2字上がりに書き、署名はその下または次行の中部やや下より書き始め、裾(すそ)は本文より1、2字上がりに収める。前付書式がもっとも妥当な形である。
[服部嘉香・服部嘉修]
宛名は表面の中央に上2字ばかり空けて書き出し、下もほぼ同寸の空きとなるように「様」を書く。住所は上1字空け、都道府県名から書く。敬称は中身と同じにする。脇付は敬称の左下にやや小さく書く。切手は左上すみになるべく1枚で。署名は裏面の中央中ほどから下に宛名より小さくして書く。住所は署名の右肩に字を小さくして書く。日付は右上部の余白にしたい。封は「〆」「封」「緘」など。
[服部嘉香・服部嘉修]
便箋の折り方は、書き上げた紙を下から上へ文字を内側にして正しく二つに折り、次にその折り目を上へ二つ折りにする。三つ折りは下から上へ3分の1その上へ上から3分の1を折りかぶせる。封筒に入れるときは長封筒、横封筒とも折り畳んだ端紙(はしがみ)のほうを表に向け宛名のあるほうを上にして入れる。
[服部嘉香・服部嘉修]
葉書には官製と私製の2種があり、官製は通常葉書、往復葉書、簡易書簡の3種に分けられる。
[服部嘉香・服部嘉修]
通常葉書の書式は(1)表面には宛名を中央、上を1字下がりぐらいに書き、住所はその右肩、都道府県名や市名を大きく書く。(2)発信者の住所・氏名は表面・裏面いずれに書くも随意であるが、表面ならば切手欄の下。(3)日付はその署名の上に小さく入れる。(4)下半部は画線を引いて通信文を書くことが許されている。(5)裏面には通信文を書く。上下左右それぞれ多少の余裕を残し、全紙面に1行10字の5、6行、多くても1行20字10行ぐらいに書き収める。
[服部嘉香・服部嘉修]
往信は通常葉書に準じて書く。
[服部嘉香・服部嘉修]
封筒を兼ねた葉書便箋で、記入面が5面あるが、通信文を隠すには、4面しか使えない。旅中の便りなどに使えば、便利であろう。
[服部嘉香・服部嘉修]
『平井昌夫監修『手紙の百科――ホーム・コンサルタント〈ホーム・シリーズ5〉』(1985・小学館)』
用件を紙に書いて相手に伝える文書。
書状,書札,消息(しようそく)/(しようそこ),尺素(せきそ),尺牘(せきとく)などともいう。ほかに手元において雑用に使う紙の意義もあるが,現在では用いられない。手紙は近世になって一般に用いられた用語で,本来文字としては,文,書,状,柬(かん),箋(せん),簡,牘,札,信などがあり,原義により微妙な異同があるが,これらの組合せで,現在流通している〈てがみ〉を指示する。手には,手習い(習字)のように,筆の跡,筆跡の意味もあり,また手みずからの意味を合わせて,手簡(しゆかん),手書(しゆしよ),あるいは真実吐露の意味,まこと,しるしをも示して,書信といい,ことさら私的内容を強調して私信ともいう。いずれも音信(おとずれ),たよりを意味し,故事より雅言として,鯉素(りそ),雁札(がんさつ)ともいう。また材料の帛(きれ)により尺素というが,尺は紙の大きさを示すことから,短い文,手紙を意味する。手紙は公文書の,伝達様式によるいろいろの名称に対し(古文書(こもんじよ)),私的な対人間の音信文を指していい,現今では郵便はがきに対して,封書を指していうことが多い。
文字のない時代,相手に用件を伝える場合は使者に口上(こうじよう)を述べさせたが,手紙は漢字の伝来とともにもたらされ,漢文の書札様式がそのまま用いられた。〈正倉院文書〉には和風のものが見られるが,職務に関したもので,まったく私的な手紙とは異なる。《万葉集》には,和歌の贈答に付随して,都に遠い任地との往来の書状が見られる。平安時代には,名筆で知られる空海,最澄の書状が現存するが,純然たる漢文の尺牘と呼ばれるものである。日常の口語,思考,感情を漢文で表現することはめんどうであり,また祝詞(のりと),宣命(せんみよう)体,和歌表記のかなの影響もあって,読み下し,仮名文字が用いられるようになった。後には視覚的な美しさを意識して,いろいろな形の散らし書きが行われ,ほとんど仮名文字の女房言葉や,重複記号を用いる女房消息が女性一般に用いられ,男子も女性へはこの形式で書くことがあり,やがては日本独特の和漢混淆文,初期には侍(はべる),後には候(そうろう)を多用する手紙文が一般化する。消息には自然の移り変りにつれて,日常面談できない遠くの相手の起居,安否を気づかう意味が強い。したがって,四季おりおりの産物,特産,あるいは衣料など年中行事に関する贈答品を付記することが多い。
都のように当人どうしの対面が自由な狭い地域では,使者もまた熟知の者であったため,使者口上の覚書のような用件のみ,歌のみでも事足り,足らぬことは使者の補足で間に合った。距離・時間を要し面談の不自由な場合は,両者の確認に差出し(発信人),宛名(受取人)を記し,日時の経過(年月日付)も勘案されることになり,本文以外にこの3項が要求される。とくに謀書(ぼうしよ)(偽書),謀判(ぼうはん)のありうる鎌倉時代以降には,発信人の真なることの証明も必要とされ,その人独自の模倣しがたい自署(花押(かおう))が創出される。私信は内容の秘密性により必然的に右筆(ゆうひつ)には任せられず,自筆にならざるをえない。また自署はおのずから礼にかなったこととされる。自署が要求された結果,近世初期には,必要を予測して紙面のあるべき位置に花押のみを記した〈判紙(はんし)〉が,本人不在の所にも厳重に保管され,儀礼的な急場には用いられた。日時の明記については,戦国時代以降,遠距離から変転する事件を通報するについて,連続的・一方的に発した通信に対し,対応する返信もまた連続するので,使者,飛脚により途中前後する場合もまれではない。そこで日付,刻付が重視され,混乱防止のため返信にも念を入れ,往信の趣意を繰り返し記すことが多い。多岐にわたる用件は整理して,一つ書き(個条書き)にすることが普通となる。
書信は儀礼上,機密保持上,自筆が本来であるが,公文作成に堪能な能筆家,書札礼を心得た書家,物書き,右筆らが,武事多忙や運筆不得手の戦国大名らに雇われ,文案の作成,代筆,清書などに職能化した。自署のみは本人が行ったが,それも江戸中期以降は事務的な木印にて塡墨をするようになり,本人の関与は,立ち会うのみなのか判然としないほどになった。反面,限られた範囲には,熟知された自筆無署名が行われてもいる。
古くは,手紙を書くほどの者は各自その身分によって,同一場所にあっては相対的な上下の位置を占め,言動にも差異があった。それがそのまま手紙にも反映して,書札礼が成立した。相手の身分,家格の異なるごとに両者の相対的位置は複雑に変化し,用いる形式,文言も変化する。見本としての手紙文案集,往来物(おうらいもの)が編集,筆写,刊行され,家ごとに右筆などによって当家書札礼が手引として作られもする。対面の挨拶が定型化するように,手紙独特の用語も定型化する。お辞儀の礼のように,〈一筆啓上〉〈謹啓〉などのように書き出し,時候の挨拶,相互の安全を賀して本文に続くが,差しせまった要件には,いきなり本文が始まることも多い。戦国時代には,〈急度(きつと)〉〈態(わざ)と〉などで始まるものもある。最末の〈書留め〉も公文のように〈如件(くだんのごとし)〉〈候也〉などで威勢を示すものもあるが,おおかたは〈恐々謹言〉などで終わり,後には〈頓首〉〈敬具〉〈かしく〉などとなる。近世初期には,本文の補遺,要約や,相手の安寧を祈る尚々書(なおなおがき)(追而書(おつてがき))は袖に書かれることが定型化し,書かれない場合には袖の空白に,〈已上(いじよう)〉〈以上〉などの文言を追記して,謀書を防止することも形式化している。巻紙が普通に用いられるようになってからは,追而書は宛名の後に追記されることは近代と同様である。遠距離,無沙汰の後には,相手の安否動静を尋ね,無音を謝し,なつかしさを述べることが多い。近世の武家では,通例,将軍,主君の安穏を慶賀する祝辞で始まることが多い。宛名には〈上所(あげどころ)〉といい,謹上,進上などの表敬の文字を上部に記し,下には殿,様,先生,兄などの〈敬語〉を楷,行,草にわたって書き分け,さらにその左右の下に〈脇付け〉として人々御中,侍者,侍史,参,まいる,机下などと記し,相手を直接指示しないで敬意を表する。また文中高貴の人物については行を変えたり(平出),その上を1,2字間空白(闕字(けつじ))とする。その他,尊敬,美辞,自分への謙称など,独特の手紙用語が多用される。
手紙の伝達には古くは心きいた家人などを用いたが,武家では,折り目だった用件,慶弔などには世に知られた家柄の者,重臣などを使者とし,使者の口上に重点がおかれる。急用,重要な手紙には脚力のある長柄(ながえ),鉄炮の者が選ばれ,通常の音信には飛脚,継飛脚(つぎびきやく)が用いられた。近世の町人などでは飛脚問屋に依頼するのが一般的である。このほか,便宜にことづけるのは,今も昔も変わらない。近代になっては郵便制度による。
手紙は一回性のもので,用済み後は反故(ほご)となる。紙の高価な時代には,その紙背(しはい)が利用されてメモ,日記,写本ともなって残ったものもある(紙背文書)。手紙はその人が最もよく表現されており,身近に感ずるものだから,相手をなつかしく思いたいせつに保存し,故人となっては裏に写経して冥福を祈る。信仰の対象,崇敬する人,偉人,名筆家などのものは,記念,手本に保存され,表具して礼拝,鑑賞の対象とされ,茶掛となって珍重され,骨董的価値を生じ売買もされる。したがって受信人の家では売却を恥じて宛名を切除することが多く,茶掛には往々宛名のない様式の整わぬ手紙もある。有名な人物には偽文書も多数存在する。
肉声の届かぬ遠方の人間にニュースを伝える手紙は,文字が知られるとともに始まったと思われ,アッシリアや王朝時代のエジプトから現物が知られている。古代ギリシア時代にもエピクロスらの手紙があったことが知られているが,ポリスごとに小さくまとまっていたギリシアよりも,領土を拡大したローマで手紙はめざましい発展を遂げ,書簡はヨーロッパ世界にとって〈風刺詩〉と並ぶ文化遺産となった。手紙は私信と公信を区別する必要があるが,簡単な私信にはギリシア時代から蠟引きの板に硬筆で字を記した。受信者は蠟を溶かして同じ板に返信を記せた。ローマではこの板をコディキルスcodicillus(複数はコディキリcodicilli)という。属州との交信が欠かせないローマは,アウグストゥス帝の治世後期には街道上に公信のための駅伝制を置いたが,私信のためには金持ちは自前の飛脚tabellariiを持っていた。手紙はインクencausturumでパピルスchartaにペンcalamusで書かれた。キケロは友人のアッティクス宛などは自筆で書いたが,たいていは書記ティロTiroに口述し,ティロが控えを取っておいたのとキケロの兄弟のクイントゥスやアッティクスがキケロからの来信を保存していたので後世に多くの書簡が残ることになった。ホラティウスは韻文(長短短六脚格)の書簡を残して書簡詩epistulaの伝統を開き,オウィディウスや12世紀の南仏詩人(中世プロバンス語ではbreus,letrasと呼ばれ,教訓的なものはensenhamenといわれ,pistola,epistolaということはまれであった),後世のユスタッシュ・デシャン,クレマン・マロ,ペトラルカ,ジョン・ダン,ポープ,ラ・フォンテーヌ,ボアローらに継承された。18世紀にはボルテールやアンドレ・シェニエにも優れた書簡詩epîtreがある。ロマン派は書簡詩を否定したが,ラマルティーヌやミュッセにも書簡詩はある。
グループに対する書簡は新約聖書の後半に見られるように,私信的部分を含む公信であるが,文学としての書簡は4世紀にシンマクスとアウソニウスによって始められた。ヒエロニムス,アンブロシウス,ノラのパウリヌス,シドニウス・アポリナリス,カッシオドルスらにより神学的書簡の伝統も作られた。
ローマ時代の飛脚は1日平均約80kmの速度であったが,紀元69年のライン軍の反乱はガルバ帝のもとに9日で伝えられ(1日約240km),しかも厳寒のアルプスを越えている。15世紀にフィレンツェのジョバンニ・アントニオ・ダ・ウッツァノは,ヨーロッパ諸都市間の飛脚の所用日数を表にしているが,その平均も1日60kmになる。1516年イタリア人フランチェスコ・デ・タシス(タクシス)は神聖ローマ帝国で郵便馬車の制度を作り,政府の公信は無料で運ぶことを条件に有料で私信を運ぶ許可を得た。道路の整備,馬匹の改良と郵便馬車の定期化は手紙の普及に貢献し,1653年にはパリの市内郵便も始まった。
16世紀以後,人文学者たちはラテン語による通信を情報交換の重要な手段とし,手紙の書き方にも関心がもたれた。フランスのサロンではボアチュールやゲ・ド・バルザックの書簡がもてはやされ,牧歌的長編小説《アストレ》《クレリー》中にも手紙が多量に登場する。17世紀末にはブールソーの書簡体小説《バベヘの手紙》と有名な《ポルトガル文(ぶみ)》が現れ,18世紀のリチャードソンの《パミラ》,J.J.ルソーの《新エロイーズ》,ゲーテの《若きウェルターの悩み》,ラクロの《危険な関係》などによる書簡体小説への道を開いた。
公開しないことを前提とした私信の秘密保持は,各国で法律で規定されている。手紙は受信人の所有物になるので,発信人から特記がなければ保存するか破棄するかは受信人の権利になるが,非公開が前提にある以上内容の公開権は発信人にあり,受信者の死亡後は返却を要求できる。ビクトル・ユゴー夫人がサント・ブーブに当てた私信が,ユゴーの要求で破棄されたのは有名である。ただし発信者が公的な役割を演じた人物の場合は歴史的文書となり,私信でも公開されうる。推薦状epistula commendatriciaeも書簡であり,すでにローマ時代から多く書かれた。推薦状はヨーロッパでは依頼人に開封のまま渡し,渡された依頼人はその場で中を改めず目前で封をして宛先に持参または郵送するのが礼儀とされる。人事についての問合せ状などでは,秘密保持のため個人名は本文に記さず別紙に書いて同封する。ヨーロッパでは敬意や親しさを表すためには自筆または銅版印刷が好まれ,タイプは略式と考えられるなど,用紙,インクの色,書式など,文化圏によって風習が異なるので,実際に当たってはよく調べる必要がある。
執筆者:松原 秀一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報
…小説という散文作品のなかで手紙が主要な叙述手段であり,その手紙の全体もしくは一部が虚構の書簡で構成されたものを指す。もっとも古い形は,紀元1世紀初頭ころのローマのオウィディウスの《ヘロイデス(名婦の書簡)》で,これは伝説中の美女たちと交わす書簡体の詩篇で,したがって散文ではない。…
…聖書はイスラムの聖典コーランのような一人物を通しての天啓の書物とは異なって,古代イスラエル民族と原始キリスト教の長い歴史の流れの中で多くの人々の手になった多様な文書を収めている。聖書は旧約聖書Old Testamentと新約聖書New Testamentから構成されているが,この区別と名称は2世紀になって初期の教会が福音書や書簡などを,イエス・キリストによる〈新しい契約〉を啓示する書物の意味で新約聖書と呼び,ユダヤ教から継承した聖典をこれと区別して〈古い契約〉(《コリント人への第2の手紙》3:14)の意味で旧約聖書と呼ぶようになったことに由来する。イエスをメシア(救世主)とは認めないユダヤ教では,キリスト教会によって旧約聖書と名づけられた文書が唯一の聖典である。…
…手紙,書翰のこと。牘は幅の広い木簡。…
※「手紙」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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