碓氷社(読み)うすいしゃ

改訂新版 世界大百科事典 「碓氷社」の意味・わかりやすい解説

碓氷社 (うすいしゃ)

1878年に群馬県で設立された代表的な組合製糸。同県碓氷郡東上磯部村の萩原音吉,同専平,同茂十郎らは座繰製糸を営む養蚕農民を結集して碓氷座繰精糸社を作り,共同揚返しを行いつつ横浜へ出荷した。前橋の座繰結社の活動に触発されたこの試みの成功をみて,翌79年には同様な組合が郡内にさらに12現れ,連合して碓氷精糸社(本社原市町。現安中市)となった。同社は84年碓氷社と改称翌年萩原鐐太郎が萩原音吉,同茂十郎に続いて社長となったころから急拡大をとげ,1910年に産業組合法による有限責任信用販売組合連合会碓氷社となった時には合計179組(うち県外56組),組合員数約3万という巨大結社であった。各組合員が自宅で繰糸した座繰糸は組ごとに共同揚返しのうえ本社で検査・荷造りして横浜その他へ出荷され,器械糸に劣らぬ価格で売却された。12年に宮口二郎が社長となるころから17年にかけて各組で器械製糸所を設立したが,県外組合の分離や製糸資本家との対抗などで碓氷社の経営はしだいに困難になっていく。30年代には,繰糸を本社直営製糸所へとさらに集中するが,42年に戦時統制によって解散させられた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「碓氷社」の意味・わかりやすい解説

碓氷社
うすいしゃ

明治前半期に群馬県に結成された農民の組合製糸結社。横浜開港による生糸輸出の増大、生糸価格の高騰によって、群馬県西部地域では幕末・維新期に座繰(ざぐり)製糸による農民の生糸生産が広範に行われた。それに伴い、地方商人の生糸の買いたたきや生糸の粗製乱造の弊害も現れ、農民の利益を著しく阻害した。この事態を打開するために、同県碓氷郡東上磯部(ひがしかみいそべ)村(現安中(あんなか)市)の豪農萩原鐐太郎(はぎわらりょうたろう)ら3人が中心となり、同村の農民123人が参加して1878年(明治11)5月に碓氷座繰製糸社が結成された。設立時には組合員が自家の繭を組合に差し出し、それを組合で混合して組合員の子女らに繰糸(そうし)させる方法をとっていた。しかし、この方法は繭の評価に対する農民の不満が多かったため翌年には廃止され、製糸は各組合員が行うことになった。組合では養蚕・製糸技術の改良、共同揚返(あげかえ)しによって品質の統一を図り、共同出荷によって地方商人を排除して、大量の生糸を横浜へ売り込んだ。

 この成功により創業の翌年には組合員が2110人に増大し、明治20年代には碓氷郡全体に広がり、明治30年代には群馬県下全体から埼玉長野など他の県にも拡大した。1910年(明治43)には産業組合法の適用を受け、有限責任信用販売組合聯合会(れんごうかい)碓氷社と改組し、事業の拡大を図った。しかし、資本家による器械製糸との対抗から、大正末年以降衰退を余儀なくされた。

[春日 豊]

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世界大百科事典(旧版)内の碓氷社の言及

【座繰】より

…こうした仕上工程の集中は,座繰小経営が連合して行う場合と生糸商人によってなされる場合とがあった。 座繰小経営による製糸結社の嚆矢(こうし)は77年に群馬県南勢多郡の豪農星野長太郎らが結成した亙瀬組(1878年旧前橋藩士族らとの精糸原社へ発展)であり,その影響を受けて同県碓氷郡でも78年に碓氷座繰精糸社(1879年碓氷精糸社へ発展,84年碓氷社と改称)が結成され,80年には同県北甘楽郡で北甘楽精糸社が結成された。前橋町生糸商も1879年に昇立社・天原社などの揚返所を設け,福島県郡山町の生糸商は共同で正製組(1880)や真製組(1881)を設立した。…

※「碓氷社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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