改訂新版 世界大百科事典 「座繰」の意味・わかりやすい解説
座繰 (ざぐり)
繰糸女工が糸枠の回転をみずから行いつつ,生糸を繭から繰る方法の進んだもの。18世紀までの繰糸法は胴取や手挽と呼ばれる簡単なものであったが,奥州(福島)では19世紀初めの享和年間(1801-04)に大小2個の溝車に調紐(しらべひも)(ベルト)をかけて糸枠の回転を速める奥州座繰が行われるようになり,上州(群馬)でも同じころ数個の坐(歯車)をかみ合わせて糸枠の回転を速める上州座繰が発明された。幕末開港による生糸需要の激増は,座繰技術の普及をもたらし,とりわけ上州座繰は1860年(万延1)信州諏訪へ,61年(文久1)甲州へ,66年(慶応2)飛驒へ,というように各地へ伝えられた。座繰は手挽に比べて約2倍の労働生産性があり,座繰器を備えた端初的なマニュファクチュア(工場制手工業)も生まれたがあまり発展性はなく,主として農家の副業として行われた。多数の糸枠を取り付けた長い軸を回転させることにより女工を糸枠の回転作業から解放し繰糸に専念させる器械製糸場が,1870年代後半に長野,山梨,岐阜3県を中心に続々と設立されはじめると,古くからの座繰製糸の中心地たる群馬県や福島県では,小枠にとった生糸を大枠に揚げ返す工程や検査,分類のうえ荷造りする工程を集中する改良座繰が現れた。こうした仕上工程の集中は,座繰小経営が連合して行う場合と生糸商人によってなされる場合とがあった。
座繰小経営による製糸結社の嚆矢(こうし)は77年に群馬県南勢多郡の豪農星野長太郎らが結成した亙瀬組(1878年旧前橋藩士族らとの精糸原社へ発展)であり,その影響を受けて同県碓氷郡でも78年に碓氷座繰精糸社(1879年碓氷精糸社へ発展,84年碓氷社と改称)が結成され,80年には同県北甘楽郡で北甘楽精糸社が結成された。前橋町生糸商も1879年に昇立社・天原社などの揚返所を設け,福島県郡山町の生糸商は共同で正製組(1880)や真製組(1881)を設立した。福島町生糸商もやや遅れて89年に共同生糸荷造所を設立したが,同所は1900年代末まで横浜での最大の生糸荷主であった。こうした改良により座繰製糸の生産量は1894年に器械製糸に凌駕されつつも1911年まで漸増し輸出もされたが,その後は国内向けに限られるようになり衰退していった。最盛期に当たる1900年前後の座繰生産者数は40万以上にのぼり,10~50釜規模のマニュファクチュアも400~500を数えたが,圧倒的多数は1~2釜を有する小経営であった。
→生糸
執筆者:石井 寛治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報