神吉村(読み)かみよしむら

日本歴史地名大系 「神吉村」の解説

神吉村
かみよしむら

[現在地名]八木町字神吉

江戸時代の神吉上村・神吉和田わだ村・神吉下村が明治七年(一八七四)に合併して成立した村。昭和三〇年(一九五五)に八木町に合併されるまで北桑田郡に属した。

北は桑田郡細野ほその村・宇津うつ(現北桑田郡京北町)、東は山城国葛野かどの越畑こしはた(現京都市右京区)、南は桑田郡山階やましな村・美濃田みのだ(現亀岡市)、西は氷所ひどころ村、上世木かみせき(現日吉町)。四方を六〇〇―七〇〇メートルの山が取り巻き、中央に水田がある。千歳ちとせ山中に源を発する千歳川が東流して東南端のまわ池に注ぐ。東部分を神吉下村、西部分を神吉上村とよび、いずれも山林の多い村で下村の山地は長く西のほうに延びる。両村の境界部の南に神吉和田村が位置する。下村が親郷で他の二村は枝郷(丹波志桑船記)。和田村は小村であるが平地が多いので生産高は大きい。


神吉村
かんきむら

[現在地名]加古川市東神吉町神吉ひがしかんきちようかんき

天下原あまがはら村の南西、神吉山南部の通称神吉台地に開ける。天正一六年(一五八八)一二月二五日の伊保庄指出案(曾根文書)には神吉両村分二五七石余がみえる。文禄四年(一五九五)八月一七日の豊臣秀吉知行方目録(木下家文書)によると、秀吉は木下家定に神吉村内一千石などを与えている。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では田方一千六五八石余・畑方七五石余、ほか常楽じようらく(現浄土宗西山禅林寺派)領高一八石余・宮(宮ノ前村八幡神社)領高五石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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