福定村(読み)ふくさだむら

日本歴史地名大系 「福定村」の解説

福定村
ふくさだむら

[現在地名]境港市福定町

竹内たけのうち村の北に位置し、東は美保みほ湾に面する。地勢は平坦で、村の中央部を外浜境そとはまさかい往来が、東端近くをなだ道がそれぞれ南北に貫いている。戦国時代末の開発と伝え、古くは曲松まがりまつ村と称した。村名の起りは村中の地蔵堂に左右になびく巨松のあったことに由来する(「諸事書上帳」佐近家文書)。寛永一九年(一六四二)の田畑売渡証文(稲賀家文書)に曲松村とみえる。しかし「村勢不繁昌のため」宝暦年間(一七五一―六四)に村名替えを願出たが許されず、安永九年(一七八〇)に再度願出て許され福定村と改名した(在方諸事控)

拝領高は八七石余。貞享元年(一六八四)には高九五石余・物成三四石余、ほかに浦役銀一三匁余・網役銀七匁余・藪役銀二匁・犬米四升余を納めていた(「土免状」佐近家文書)


福定村
ふくさだむら

[現在地名]関宮町福定

奈良尾ならお村の西、八木やぎ川の最上流部に位置する。西にはひようノ山(須賀ノ山)赤倉あかくら山などがそびえ、山々を境に西は因幡八東はつとう舂米つくよね(現鳥取県若桜町)など。集落八木川北岸のテラス状台地に形成され、耕地は南岸に展開する。近世までは七美しつみ郡に属した。当地から八木川に沿って西進、赤倉山の南の鞍部を越えて舂米村に至る道は氷ノ山越とよばれ、難路ではあったが因幡からの伊勢参詣などに用いられた。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「ふくさた」とみえる。


福定村
ふくさだむら

[現在地名]中辺路町福定

大川おおかわ村の東、大内川おおうちがわ村の北にあたり、東は近露ちかつゆ村と大坂おおさか(現逢阪峠)で境され、北は兵生ひようぜい村。中央を富田とんだ川が西流し、集落は谷内と東側の急斜面に散在する。慶長検地高目録には「福芝村」と記され、村高八四石余、小物成三・六九石。元和五年(一六一九)以降和歌山藩田辺領。三番組に所属。安永二年(一七七三)の毛付面積は三町六反で、田畑九町九反のうち三割六分にすぎなかった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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