日本歴史地名大系 「舂米村」の解説 舂米村つきよねむら 山梨県:南巨摩郡増穂町舂米村[現在地名]増穂町舂米小林(こばやし)村・大窪(おおくぼ)村の西に位置し、西は平林(ひらばやし)村、北は秋山(あきやま)村(現甲西町)。槻米村とも書いた。村の三分二以上が山地で、その中央を平林村から利根(とね)川が流れ下り、南は戸(と)川が小室(こむろ)村との境界をなす。平林村へは利根川沿いの道がある。集落は村の東部の段丘上と段丘崖下に小集落が散在している。このため段丘では桑を栽培して養蚕を行い、低地に水田が開ける。「勝山記」の永正四年(一五〇七)条に「又御本寺鐘ヲツキヨ子(舂米)ノ岩見守ヨリ記(寄)進至候、此人の母ノ三十三年ノ為ニ六十六部ノ写経供養」とあり、舂米の石見守という人物が日蓮宗本門流総本山光長(こうちよう)寺(現静岡県沼津市)に梵鐘を寄進し、さらにその亡母の菩提のため、六十六部の写経をしたという。石見守は当地に居住していた有徳人か。当地に高林(たかばやし)・中村(なかむら)の字名があり、高林は当地明王(みようおう)寺蔵の鰐口銘に「貞応三年大才甲申二月十五日、甲斐国西郡高林内中尾権現宮之全願主阿闍梨長慶(花押)、仰願三所権現五躰王子四所明神弟子等願所生死之果報」とみえる。銘文中にある「中尾権現」は明王寺に隣接して鎮座する熊野神社のことで、三所とはそれを構成する本宮・新宮・那智をさしている(甲斐国志)。その後、天正一一年(一五八三)四月一九日の徳川家印判状写(増穂町誌)に「西郡高林・中村内」とそろってみえる。 舂米村つくよねむら 鳥取県:八頭郡若桜町舂米村[現在地名]若桜町舂米蓑荷谷(みようがだに)村の北東、舂米川の最上流に位置し、北東の氷(ひよう)ノ山を越えると但馬国。元禄一四年(一七〇一)の変地其外相改目録(県立博物館蔵)に、正保国絵図・正保郷帳には付米村と載せたが、元禄国絵図・元禄郷帳作成に際して舂米村に改めたとある。拝領高は五五石余、本免六ツ。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高六九石余、竈数二七。「因幡志」では家数二〇、産土神は蔵王権現。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by