秋吉村(読み)あきよしむら

日本歴史地名大系 「秋吉村」の解説

秋吉村
あきよしむら

[現在地名]秋芳町大字秋吉

北は秋吉台上で嘉万かま青景あおかげあか(現美東町)、東は大田おおだ綾木あやぎ(現美東町)、南は岩永いわながの各村と接する。東西に赤間関あかまがせき街道(中道筋)が通り、この街道に沿って秋吉宿が置かれた。村の西を厚東ことう川が南流する。

村名の由来を「注進案」は「俗説に往古不闢原台の沖往来の左右は広き沼にて眼のあたり蘆葭生茂りたるを象りて蘆葭村と言ふ、康永年中田畠を開き農人日を追ふて繁茂し、田作豊饒によそへて蘆葭を秋吉と唱へかへしよし申伝ふ」と記す。秋吉は「正慶乱離志」の正慶二年(一三三三)四月六日条に「如風聞者、長門国厚東・秋吉・岩永・由利・伊佐・ア□・マツヤ・河越・アサ、皆参先帝御方云々」とみえ、中世秋吉の在名をもつ者がいたことが知られる。


秋吉村
あきよしむら

[現在地名]内浦町秋吉

清真きよざね村の南方にあり、北を九里川尻くりかわしり川が東流する。「能登名跡志」の不動寺ふどうじ村の項に行延ゆきのべ時長ときなが国重くにしげ・清真などとともに顕吉をあげ、「一揆衆徒・与力の筋目地名抔に残り」と記す。

正保郷帳に村名がみえ、高三四六石余、田一三町九反余・畑九町一反余。慶安三年(一六五〇)の収納方は定納口米一六九石余のほか、寛永八年(一六三一)・同一九年の新開高五斗余や山銭口米五石余などを合せ一八五石余となっている(山下文書)。承応三年(一六五四)能登奥両郡収納帳では草高三四七石余、免四ツ五歩五厘。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高三七九石、免五ツ、小物成は山役一六〇匁(三箇国高物成帳)


秋吉村
あきよしむら

[現在地名]富山市秋吉

富山城下の東方に位置し、南西山室江口やまむろえぐち村。五百石ごひやつこく往来が通る。天正一一年(一五八三)八月二〇日佐々成政は「新川山室内秋吉村」三五〇俵の地などを槻尾甚助に安堵している(「知行方目録」水越家文書)。正保郷帳では高三三八石余、田方二二町五反余、新田高三六石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高四一三石、免三ツ九歩、万治二年(一六五九)の新田高四石があった(三箇国高物成帳)


秋吉村
あきよしむら

[現在地名]大和高田市大字秋吉

葛城川に沿い、西坊城にしぼうじよう村西方に位置する。正応二年(一二八九)九月一五日の本領主源少法師丸私領田寄進状(東大寺文書)に「奉寄進 大和国葛下郡長原庄内秋吉保安芸高倉両名内田畠事 合肆町者但条里坪付者以前寄進状在之歟」とあり、三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)には「大乗院寄 秋吉庄三十六丁二反葛下郡」と記す。

文禄検地による村高は五五・七三石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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