日本歴史地名大系 「大和高田市」の解説 大和高田市やまとたかだし 面積:一六・七三平方キロ奈良盆地の西南部に位置する。全域が平地で、東部を葛城川が、中央部を高田川が北流する。難波(なにわ)と伊勢を結ぶ古道横(よこ)大路が東西に走り、穴虫(あなむし)越との会合地高田村が近世以降商業都市として栄える。東は橿原(かしはら)市、北は北葛城郡広陵町・香芝(かしば)町、西は同郡當麻(たいま)町、南西は同郡新庄町、南は御所(ごせ)市に接する。市域は大半が葛下郡に属し、東・北・西南部がそれぞれ高市郡・広瀬郡・忍海(おしみ)郡に属していた。市名ともなっている「高田」は「日本書紀」武烈天皇三年一一月条に「百済の意多郎卒せぬ。高田丘の上に葬る」とある高田丘の地といわれ、「和名抄」葛下郡蓼田(たでた)郷にあたる。〔原始・古代〕地形的に平坦地で縄文遺跡はない。弥生遺跡には有井(ありい)遺跡・三倉堂(みくらどう)遺跡があり、ほかに大字野口(のぐち)の西代(にしんだい)で弥生式土器の出土が報告されている。古墳はおもに馬見(うまみ)丘陵南端の小丘陵に分布、最盛期の築山(つきやま)古墳を中心に約一〇基の古墳が密集する。大字池田(いけだ)の領家山(りようけやま)古墳からは鶏頭埴輪が出土している。また市街地高田の専立(せんりゆう)寺境内に家形石棺があり、大字三倉堂の三倉堂池からは数基の木棺が出土している。条里はほぼ路西二二―三〇条、下(しも)ツ道から起算して五―九里の範囲に入る。「延喜式」神名帳記載の神社では、葛下郡の石園坐多久豆玉(いわそのにいますたくつたま)神社があり、南本(みなみほん)町の長谷本(はせもと)寺も平安時代の古刹である。二上山麓、当麻地方に発した当麻氏は、のち当地に拠し、中世末期まで政治・経済に多大の影響を与えた。〔中世〕大和盆地の西南に位置する当地域にも平安期には興福寺などの支配勢力が及び、次表のような雑役免荘などが設定された。<資料は省略されています> 興福寺領荘園等(応永六年興福寺造営段米田数帳) 寺(寺務)方<資料は省略されています> 一乗院方<資料は省略されています> 大乗院方<資料は省略されています>摂関家領平田庄は平安後期に多くの負籠田を取込んだが、多武峯(とうのみね)寺・金峯山寺の荘園もそのうちに含まれていた(東大寺文書)。荘官のうちに当麻氏がいたが(同文書)、そのうちから高田氏が出て、興福寺一乗院方国民として、また平田庄荘官として活躍した。高田天神宮(現三和町)の貞応元年(一二二二)の棟札に「当麻宗正」その他一族の名をみうる。同天神社は当麻氏の造立になると考えられるが、嘉吉三年(一四四三)の四度目の造替の棟札には「参河守当麻為秀」とある。また高田郷薩摩証菩提寺(不動院、現本郷町)の文明一五年(一四八三)の棟札には「当麻雅楽佐為長」の名がみえる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大和高田市」の意味・わかりやすい解説 大和高田〔市〕やまとたかだ 奈良県北西部,奈良盆地の南西部にある市。 1948年市制。 56年陵西村,57年天満村を編入。大和川の支流高田川と葛城川の沖積地を占める。中心市街地の高田は,戦国時代に当麻氏が築城,その後寺内町,大坂と伊勢を結ぶ参宮街道の宿場町として繁栄。江戸時代以降は商業の町として発展した。古くから大和木綿の産地として知られたが,1898年紡績工場が設立され,その後メリヤス,靴下,ゴム,ボタンなどの工場が進出した。第2次世界大戦後は食品,金属などの工場も立地。県下屈指の商工業都市。農村部では野菜,花卉園芸が行われるが,宅地化も著しい。 JR和歌山線高田駅で桜井線を分岐。近畿日本鉄道,国道 24号線,165号線,166号線が通じる。面積 16.48km2。人口 6万1744(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by