稙田庄(読み)わさだのしよう

日本歴史地名大系 「稙田庄」の解説

稙田庄
わさだのしよう

古代大分郡稙田郷(和名抄)の庄園化したもの。植田庄・早田庄とも記される。大分川右岸およびその支流七瀬ななせ流域の平野を中心とし、現大分市南西部(横瀬を除く稙田地区、東稙田地区など)から野津原のつはる(中世には直入郡であった今市地区などを除く)にかけての一帯に比定される。保元二年(一一五七)三月二五日の太政官符案(「兵範記」同月二九日条)に、保元の乱で敗死した左大臣藤原頼長の没官領二九ヵ所の内に「豊後国壱所 植田庄」とみえる。一二世紀中葉までに摂関家領として成立し、同官符により後白河天皇の後院領となった。成立の経緯は不明であるが、豊後大神氏の祖惟基の三男季定を祖とする稙田氏(太田吉蔵本「大神系図」)が稙田郷郷司職を有し、開発領主として摂関家を領家と仰いで成立したものと考えられる。長寛二年(一一六四)九月三日の由原宮宮師僧院清譲状(柞原八幡宮文書)によると当庄に灯油田一町があった。灯油田は文禄年中(一五九二―九六)まで灯明田として存続し、現在も上宗方かみむなかたの字壱町田いつちようだに名を止めている。文治年中(一一八五―九〇)作成利用された宇佐宮仮殿地判指図(宇佐神宮蔵)によれば、宇佐宮仮殿造営につき豊後国一国平均役として当庄に置路甃六八丈五尺のうち若宮鳥居二丈、東大門二間などが割当てられた。

後白河院は建久三年(一一九二)二月、その所領を後鳥羽天皇に処分したが、承久の乱後幕府に没収された。幕府は承久三年(一二二一)七月後堀河天皇に返却し、四条天皇を経て後嵯峨天皇に伝領された。文永九年(一二七二)正月一五日、後嵯峨院は当庄など五ヵ所を二品円助法親王に譲った(「後嵯峨院御処分帳案」伏見宮御記録)。のちに亀山天皇領掌するところとなり、大覚寺統に伝えられていったと考えられる。内閣文庫本豊後国弘安田代注進状には植田庄三三五町二段、領家大納言二位御局とある。本家の亀山院が領家職を御所奉公の女官に与えたものであろう。大納言二位御局は坊門信清の娘で、順徳天皇の娘永安門院子内親王の母に比定されるが、確証がない。

前掲注進状には庄内の名として上義かみよし乙犬おといぬ吉藤よしふじ永富ながとみ行弘ゆきひろ松武まつたけ千歳せんざい重国しげくに光吉みつよし福重ふくしげの一〇名が記されている。前掲大神系図によれば、稙田季定の曾孫有綱が平氏の鎮西下向に際し、臼杵・緒方氏らの一族とともに源氏に味方し、平家追討ちに功があったとして吉藤名・野津原郷を与えられたとする。有綱は清綱に吉藤名、遠綱に光吉名、有良に上義名、親綱に行弘名、佐伯女に重国名をそれぞれ譲ったという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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