日本歴史地名大系 「稙田庄」の解説
稙田庄
わさだのしよう
- 大分県:大分市
- 稙田庄
古代大分郡稙田郷(和名抄)の庄園化したもの。植田庄・早田庄とも記される。大分川右岸およびその支流
後白河院は建久三年(一一九二)二月、その所領を後鳥羽天皇に処分したが、承久の乱後幕府に没収された。幕府は承久三年(一二二一)七月後堀河天皇に返却し、四条天皇を経て後嵯峨天皇に伝領された。文永九年(一二七二)正月一五日、後嵯峨院は当庄など五ヵ所を二品円助法親王に譲った(「後嵯峨院御処分帳案」伏見宮御記録)。のちに亀山天皇の領掌するところとなり、大覚寺統に伝えられていったと考えられる。内閣文庫本豊後国弘安田代注進状には植田庄三三五町二段、領家大納言二位御局とある。本家の亀山院が領家職を御所奉公の女官に与えたものであろう。大納言二位御局は坊門信清の娘で、順徳天皇の娘永安門院子内親王の母に比定されるが、確証がない。
前掲注進状には庄内の名として
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報