百科事典マイペディア 「稲村御所」の意味・わかりやすい解説
稲村御所【いなむらごしょ】
→関連項目篠川御所
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室町時代奥州に置かれた政治機関およびその当主足利満貞を指す。1399年(応永6)足利満貞が陸奥国岩瀬郡稲村に下向し,ここを鎌倉府の奥羽支配の拠点としたことによる。同時に足利満直(みつただ)が同国安積郡篠川(ささがわ)に派遣されて篠川御所と呼ばれた。稲村御所と篠川御所との間には支配命令関係や職務権限の相違などはみられず,両御所ともに知行安堵,充行(あておこない),軍勢催促,軍忠感状などの文書を発給しており,相互に協力しながら奥羽支配を展開しようとしたとみられる。稲村御所等が影響力を持っていたのは南奥が中心であり,その権力基盤は仙道地域の国人一揆であった。1416年の上杉禅秀の乱以後,両御所は分裂し,稲村御所は持氏方に属し,幕府の支援を得た篠川御所と抗争するが,反持氏勢力を結集する篠川方に圧倒され,応永末ごろ鎌倉に帰府し,稲村御所は消滅した。満貞は永享の乱で持氏とともに鎌倉で自殺した。
執筆者:伊藤 喜良
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…それは14世紀末にはみられるが,1404年(応永11)の福島県中通りの伊東一族を中心とした国人20名からなる仙道一揆(せんどういつき),10年の岩城,岩崎,楢葉,標葉(しめは),行方(なめかた)の海道5郡の国人10氏による五郡一揆などが代表的なものである。鎌倉公方足利満兼は1399年弟の満直(篠川御所(ささがわごしよ)),満貞(稲村御所)を陸奥に派遣するが,彼らはこうした国人一揆に支えられて,かろうじて南奥の一角に根拠をもつことができたにすぎない。鎌倉府滅亡の永享の乱(1438)にあたっては,稲村御所満貞は鎌倉に上って鎌倉公方足利持氏とともに自殺し,篠川御所満直は幕府と直結して,持氏にとってかわろうとする野心をみせるが,成功するはずもなく,1440年(永享12)の結城合戦の中で殺されてしまう。…
※「稲村御所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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