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永享の乱 えいきょうのらん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

永享の乱
えいきょうのらん

永享 10 (1438) 年関東公方足利持氏室町幕府にそむいた事件。正長1 (28) 年,実子のなかった4代将軍足利義持が後継者を定めず没したあと,将軍への野望をいだいていた持氏は,次期将軍の地位を期待していたが,同年管領畠山満家らが引いたくじによって天台座主青蓮院義円 (義教) が将軍に決定した。

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デジタル大辞泉の解説

えいきょう‐の‐らん〔エイキヤウ‐〕【永享の乱】

永享10年(1438)鎌倉公方(くぼう)足利持氏(あしかがもちうじ)が将軍足利義教(よしのり)に対して起こした反乱。義教は今川氏らに討伐を命じ、翌年、持氏は自殺した。

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百科事典マイペディアの解説

永享の乱【えいきょうのらん】

1438年(永享10年)鎌倉公方足利持氏が室町幕府にそむいた事件。持氏が将軍足利義持の後嗣になれなかったのを不満として将軍足利義教に反抗,これをいさめた関東管領上杉憲実とも不和となった。
→関連項目足利成氏足利荘稲村御所関東管領古河公方平井城結城合戦

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世界大百科事典 第2版の解説

えいきょうのらん【永享の乱】

1438年(永享10)8月から翌年2月にかけて,鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実,憲実を援護する将軍義教との間の抗争に端を発した東国の内乱。幕府と鎌倉府の関係は両府の成立以来必ずしも良好といえるものではなかった。とくに上杉禅秀の乱以後は持氏が禅秀与党の征討と称して,反鎌倉,親幕府的な東国諸氏の討伐を敢行したことによって対立はますます深まっていった。乱後の持氏と憲実との関係も微妙なものであった。持氏は反鎌倉的な東国諸氏に強硬な態度で臨んだのであるが,憲実は融和的,親幕府的であった。

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大辞林 第三版の解説

えいきょうのらん【永享の乱】

1438年(永享10)将軍継嗣問題から室町幕府と対立した鎌倉公方くぼう足利持氏が、和解をすすめる上杉憲実のりざねに対して挙兵した事件。憲実は幕府に援軍を求め、将軍足利義教は軍を送って持氏を追討、翌年持氏は自刃した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

永享の乱
えいきょうのらん

1438年(永享10)から翌年にかけ、鎌倉公方(くぼう)足利持氏(あしかがもちうじ)が室町幕府に背いた事件。持氏は上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)の乱などで混乱した鎌倉府の支配体制を立て直そうとし、強圧的に東国の諸氏族に臨んだため、彼らとの対立が激化した。また将軍継嗣(けいし)問題の際、選ばれなかったことから公然と反幕府行動をとり始め、今川氏の家督相続問題、村上、小笠原(おがさわら)両氏の抗争などに介入、幕府と対立し、これを戒める関東管領(かんれい)上杉憲実(のりざね)とも円滑にいかなくなった。幕府はこのような持氏の動きに対し、篠川(ささがわ)御所足利満直(みつただ)への働きかけ、関東扶持衆(ふちしゅう)の設置などにより持氏を牽制(けんせい)していたが、持氏の憲実への追討軍派遣をみるに至り持氏の討伐を決め、今川、武田、小笠原などの諸氏に出陣を命じた。その結果持氏軍の多くの将兵は幕府側に移り、鎌倉を守っていた三浦時高(みうらときたか)も離反したため、持氏は憲実軍の長尾忠政に降参し、鎌倉の永安寺に幽閉され、39年2月に自殺させられた。これにより乱はいちおう終息し、鎌倉公方による実質的な関東支配は終わった。しかしこの乱は、こののち長く東国社会に影響を与え、結城(ゆうき)合戦、足利成氏(しげうじ)の公方就任、それに伴う享徳(きょうとく)の大乱、そして古河(こが)公方の成立など、東国に不安定な政情を現出させる要因となった。[小要 博]
『渡辺世祐著『関東中心足利時代之研究』(1971・新人物往来社) ▽神奈川県県民部県史編集室編『神奈川県史 通史編1』(1981・財団法人神奈川県弘済会)』

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世界大百科事典内の永享の乱の言及

【嘉吉の乱】より

…義教専制化の基礎は直轄軍と直属官僚にあったといえよう。義教は39年(永享11)長年の対抗者であった鎌倉公方持氏を滅ぼし(永享の乱),遺子安王・春王も両者を擁した結城氏朝とともに滅ぼした(結城合戦)。守護大名に対しては家督に介入して圧力を加え,若狭・三河・丹後守護一色義貫や伊勢守護土岐持頼などはさしたる理由もなく追討された。…

【鎌倉公方】より

…これ以前から憲実から諸種連絡を受けていた幕府は,この機をとらえて諸将に持氏追討を命じた。永享の乱の勃発であった。その後,幕府方と持氏方との合戦が箱根や小田原などでくり返されたが,持氏方は各地で敗れ,持氏に背くものが相ついだ。…

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