足利満直(読み)あしかがみつただ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「足利満直」の意味・わかりやすい解説

足利満直
あしかがみつただ
(?―1440)

室町中期の武将。「みつなお」とも読む。篠川御所(ささがわごしょ)。鎌倉公方(くぼう)第2代氏満(うじみつ)の子、同3代満兼(みつかね)の弟。1399年(応永6)陸奥(むつ)国安積(あさか)郡篠川(福島県郡山(こおりやま)市安積町笹川)に下向、稲村御所満貞(みつさだ)とともに鎌倉府の南奥州支配の一翼を担う。1429年(永享1)前後に結城(ゆうき)白河氏などにあてた発給文書が10点残存し、それらからみると、奥州管領(かんれい)に準じた権限を行使している。1416年(応永23)の上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱に上杉氏憲(うじのり)(禅秀)、足利満隆(みつたか)に味方し、以来、反持氏(もちうじ)、反満貞、親幕府という独自の動きをした。1440年(永享12)6月、石川氏ら結城合戦に際し、結城方についた南奥州の国人達に攻められ篠川にて没した。

[平田満男]

『『福島県史 第1巻』(1969・福島県)』『柳沼儀介著『奥州篠川御所――史料と研究』(1975・郡山地方史研究会)』


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改訂新版 世界大百科事典 「足利満直」の意味・わかりやすい解説

足利満直 (あしかがみつただ)
生没年:?-1440(永享12)

室町中期の武将。第2代鎌倉公方(くぼう)足利氏満の子。1399年(応永6)陸奥国安積郡篠川(ささがわ)に派遣され,篠川御所と号す。稲村御所足利満貞とともに奥羽支配のかなめとなる。上杉禅秀の乱以後,反鎌倉公方派として,鎌倉派の足利満貞と対立し,奥州の反鎌倉府勢力を結集し,幕府と積極的に結びついて満貞を圧倒した。永享の乱後の結城合戦最中に南奥の国人に攻められ自殺した。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「足利満直」の解説

足利満直 あしかが-みつただ

?-1440 室町時代の武将。
足利氏満の子。応永6年奥州支配のため兄の3代鎌倉公方(くぼう)足利満兼によって安積郡(あさかぐん)篠川(ささがわ)(福島県)に派遣され,篠川御所とよばれた。幕府と甥(おい)の4代鎌倉公方足利持氏(もちうじ)が対立するなか,反持氏の立場をとる。のち結城(ゆうき)合戦の際,持氏の遺児を擁する結城方に攻められ,永享12年6月10日自害した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「足利満直」の意味・わかりやすい解説

足利満直
あしかがみつただ

[生]?
[没]永享11(1439).2.10. 鎌倉
室町時代前期の武将。氏満の子。篠川御所ともいう。応永6 (1399) 年,兄満兼の命で奥州支配のため陸奥篠川に下る。永享の乱に持氏に従い幕府軍に敗れ自刃

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世界大百科事典(旧版)内の足利満直の言及

【篠川御所】より

…室町期の鎌倉府が奥羽両国を統治するため,陸奥国安積郡篠川(笹川,佐々河)に整備した足利一族の居館。1391年(元中8∥明徳2)暮れから両国併管を認可された鎌倉府では,99年(応永6)春,第3代関東公方足利満兼のとき,弟の足利満貞,足利満直を岩瀬郡稲村と篠川に配置し,両国を掌握しようとした。これを稲村御所,篠川御所という。…

【陸奥国】より

…旧国名。奥州。現在の福島県,宮城県,岩手県,青森県の全域と秋田県の一部。
【古代】
 東山道に属する大国(《延喜式》)。《延喜式》の規定では35郡を管し,国府は多賀城(現,宮城県多賀城市)にあった。その設置は他の諸国と同様,大化改新(645)後あまり時を経ない時期と思われるが,当時は〈道奥国(みちのおくのくに)〉と記し,読まれた。この〈道奥国〉という命名は他の諸国の国名とは趣を異にし,東海・東山2道の奥すなわち最末端に位置する国という意味である。…

※「足利満直」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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