立岩別符(読み)たていわべつぷ

日本歴史地名大系 「立岩別符」の解説

立岩別符
たていわべつぷ

遠賀おんが川中流域、現飯塚市立岩・川島かわしま一帯にあった宇佐宮領。鎌倉期に立岩別符は本家(近衛家)の「御下知以下証文」を帯する宇佐宮擬大宮司家の重代相伝の所領であったが、正和二年(一三一三)に至るまでの数十年間、武藤覚然(為頼)・浄然(経平)父子当知行し、また徳治二年(一三〇七)には宇佐宮小松雑掌浄心が「本所下文」を得て領有権を主張していた。そこで正和二年に宇佐擬大宮司清輔は鎌倉幕府が発令した神領興行法を根拠として、鎮西探題に武藤浄然の押領を訴えた。探題北条政顕はまず年紀法の趣旨に基づいて雑掌浄心の領有権を否定し、浄然の当知行を認定したうえで、神領興行法の「被止武家被ママ知行」という趣旨に基づき、宇佐清輔の領有権を認定する判決を下した(同年一〇月一二日「鎮西下知状案」到津文書/鎌倉遺文三二)。しかし浄然は「神領興行下知」に違背し、さらに当別符の在家に放火したため、北条政顕は筑前国御家人合屋覚仏(合屋の在地領主)と豊後国御家人八坂道海を使節に任命し、論所の沙汰付けと狼藉の実況検分を指示した(同年一二月二六日「鎮西御教書案」同上)。なお覚仏は浄然とは「古敵」の関係にあったため、任務の公正を期して豊後国御家人安心院公宣と交替している(同三年三月一一日「鎮西御教書案」同文書/大宰府・太宰府天満宮史料九)。一方、雑掌浄心は依然として当別符の領有権を主張して鎮西探題に越訴していたが、元応元年(一三一九)に棄却されている(同年一一月二日「鎮西御教書案」同文書/鎌倉遺文三五)

その後宇佐清輔は嫡子泰輔に当別符を譲与し(年月日未詳「立岩別符相伝系図写」到津文書/大分県史料三〇)、貞和四年(一三四八)には宇佐光永(泰輔)が嫡子利輔に「立岩別符一方」を譲与している(同年一二月五日「宇佐光永譲状案」同文書/南北朝遺文(九州編)三)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報