竹本東玉(読み)タケモト トウギョク

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「竹本東玉」の解説

竹本 東玉(初代)
タケモト トウギョク


職業
女義太夫

本名
加藤 はま

生年月日
嘉永4年 12月5日

出生地
大坂(大阪府)

経歴
父は素人義太夫をやっており、自身も3代目豊沢団平・5代目竹本春太夫に師事して女義太夫の太夫となる。明治5年より竹本東玉を名乗り、大阪の舞台を中心に活動。間もなく男勝り語り口頭角を現し、6年には西日本を巡業、長州ではその芸に感銘を受けた人々が彼女のために寄席を建てるなど、大成功をおさめた。9年には人形遣い名手といわれた吉田辰造・吉田金四らと男女混合の興行を行い、忠九や長局などを演じて好評を博した。18年には一門を引き連れて東京・浅草に進出。以来、約10年に渡って活躍し、初代竹本綾之助とともに女義太夫の黄金時代を現出した。31年大阪に戻り、43年に引退。

没年月日
大正6年 2月1日 (1917年)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「竹本東玉」の解説

竹本 東玉(1代目)
タケモト トウギョク

明治期の女義太夫



生年
嘉永4年12月5日(1851年)

没年
大正6(1917)年2月1日

出生地
大阪府

本名
加藤 はま

経歴
父は素人義太夫をやっており、自身も3代目豊沢団平・5代目竹本春太夫に師事して女義太夫の太夫となる。明治5年より竹本東玉を名乗り、大阪の舞台を中心に活動。間もなく男勝りの語り口で頭角を現し、6年には西日本を巡業、長州ではその芸に感銘を受けた人々が彼女のために寄席を建てるなど、大成功をおさめた。9年には人形遣いの名手といわれた吉田辰造・吉田金四らと男女混合の興行を行い、忠九や長局などを演じて好評を博した。18年には一門を引き連れて東京・浅草に進出。以来、約10年に渡って活躍し、初代竹本綾之助とともに女義太夫の黄金時代を現出した。31年大阪に戻り、43年に引退。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「竹本東玉」の解説

竹本東玉 たけもと-とうぎょく

1851-1917 明治時代の女義太夫の太夫。
嘉永(かえい)4年12月5日生まれ。3代豊沢団平,5代竹本春太夫に師事し,明治5年大阪の舞台に出演。18年東京浅草の寄席にでて評判となり,初代竹本綾之助らとともに,女義太夫の全盛時代をきずいた。大正6年2月1日死去。67歳。大坂出身。本名は加藤はま。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「竹本東玉」の解説

竹本東玉

没年:没年不詳(没年不詳)
生年:嘉永6頃(1853)
明治時代に活躍した女義太夫の太夫。本名はま。大坂生まれ。3代目豊沢団平,竹本春太夫に師事し,19歳で東玉を名乗り大阪の寄席で看板をあげる。明治18(1885)年に上京し,浅草の寄席に出て好評を博す。本場大阪の芸を東京に広め,娘義太夫全盛期の下地を築いた開祖といわれる。

(田中悠美子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の竹本東玉の言及

【女義太夫】より

…しかし1837年(天保8)には,《娘浄瑠璃芸品定》という評判記が出版されるほどもてはやされたので,天保改革(1841)では弾圧を受け,36人が投獄された。明治の東京では素(す)浄瑠璃の形式で大流行するが,その基礎を作ったのは,82年に名古屋から再度上京した竹本京枝と,大阪で盛名をはせていた竹本東玉の東上(1885)である。やがて竹本綾之助や竹本住之助らの出現で女義太夫の隆盛を迎え,青壮年層を魅了し,客席からひいきの女義太夫に〈どうする,どうする〉と口拍子をかける熱狂的ファン・グループの〈どうする連〉を輩出させる。…

※「竹本東玉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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