竹橋宿(読み)たけのはししゆく

日本歴史地名大系 「竹橋宿」の解説

竹橋宿
たけのはししゆく

[現在地名]津幡町竹橋

北陸街道の宿駅近世文書には竹橋駅とみえることが多い。津幡宿から三一町余、倶利伽羅くりから峠を挟み越中国礪波となみ埴生はにゆう(現富山県小矢部市)まで約二里四町、今石動いまいするぎ宿(現同上)まで二里二一町(明和九年「諸事留」俵文書)中世から交通の要地であった。慶長二〇年(一六一五)三月加賀藩は竹橋村に宿送人足伝馬の朱印状を下し(「竹橋駅御印写等書留」林文書)、寛永一二年(一六三五)二月には宿駅負担の増加により竹橋村の郡役を免除している(加藩国初遺文)。同一六年二月には藩用も含み無賃の伝馬使用を禁止した(「竹橋村宿送人足伝馬御印」酒井文書)。明暦二年(一六五六)藩は藩士知行分の払米・引米を農耕馬によって礪波郡の村村から金沢城下へ付通しすることを禁止し、右の米を一ヵ月のうち一〇日は当宿、二〇日は津幡宿の宿馬使用に割当て、金沢までの付通しを認めた(加藩国初遺文)。寛文一一年(一六七一)竹橋村一一三軒の居屋敷分として一八石九斗が免除された(改作所旧記)

延宝二年(一六七四)藩は公私とも荷物一駄四〇貫目・人足荷物一人五貫目を限度とし、当宿より津幡宿までの米・大豆の駄賃一駄二六文・乗掛荷二六文、荷なし乗一七文・人足一三文、埴生までは駄賃一駄七三文・荷なし乗四六文・人足三七文と定め、ほかに城端じようはな(現富山県城端町)井波いなみ(現同県井波町)までの賃銭も定めた(「竹橋宿定書」酒井文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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