日本歴史地名大系 「笠岡湊」の解説
笠岡湊
かさおかみなと
笠岡村の南西部、
近世初頭、小堀正次・政一の統治時代には加子浦としての性格をもち、米・大豆・塩・薪・丸太などの集散地でもあった(慶長一四年「水夫飯米請取」岸本文書など)。福山藩領となっても引続き加子浦に指定され、延宝三年(一六七五)の加子役人数一一六・船数五六(水野様御一代記)。同藩領時代に順次湊も整備されたと考えられる。明暦三年(一六五七)の藩主覚書(吉田文書)には「むかしハ備中之内御蔵入之米笠島迄津出し仕、尤備中給人方之米不残此所ニいたし置、大坂江此浦之船にてつミ登せ候付、所之もの鉄・木綿・たはこなと出積登せ候、此運賃等万にきはひ候」と記されるが、この頃になると米や諸色産物は松山藩主水谷氏による
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報