笠岡湊(読み)かさおかみなと

日本歴史地名大系 「笠岡湊」の解説

笠岡湊
かさおかみなと

[現在地名]笠岡市笠岡

笠岡村の南西部、宮地みやじ川・隅田すみだ川の河口に開けた湊で、吸江きゆうこう(古城山)の西側にあたり、現在の笠岡港とほぼ同じ位置にあたる。西に開け沖合二〇余里を見通せたが、大風・高波の時には土砂が押寄せ、前出両河川による土砂の堆積もあって、絶えず堀浚えや波止場普請をしなければならなかった。南北朝期陶山氏は笠岡山(竜王山)築城、東方山麓には町場が形成されていたと伝えるが、この町場はすでに港町の機能を有していたと思われ、文安二年(一四四五)の「兵庫北関入船納帳」によれば、米・大麦・材木・塩・干鯛などを積載した笠岡からの船が兵庫北関に入津しており、瀬戸内海航路の要港として開けていた。

近世初頭、小堀正次・政一の統治時代には加子浦としての性格をもち、米・大豆・塩・薪・丸太などの集散地でもあった(慶長一四年「水夫飯米請取」岸本文書など)。福山藩領となっても引続き加子浦に指定され、延宝三年(一六七五)の加子役人数一一六・船数五六(水野様御一代記)。同藩領時代に順次湊も整備されたと考えられる。明暦三年(一六五七)の藩主覚書(吉田文書)には「むかしハ備中之内御蔵入之米笠島迄津出し仕、尤備中給人方之米不残此所ニいたし置、大坂此浦之船にてつミ登せ候付、所之もの鉄・木綿・たはこなと出積登せ候、此運賃等万にきはひ候」と記されるが、この頃になると米や諸色産物は松山藩主水谷氏による高梁たかはし川舟運の整備によって玉島たましま(現倉敷市)に積出されるようになり、ひと頃の賑いはみられなかった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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