西浜村(読み)にしはまむら

日本歴史地名大系 「西浜村」の解説

西浜村
にしはまむら

[現在地名]マキノ町西浜・高木浜たかぎはま

南は琵琶湖に面し、西近江路に沿い、東は海津かいづ村のうち海津中小路かいづなかこうじ町。古代・中世の海津湊は高木浜であったという伝承がある。古くは当地を含んで海津とよび、海津西浜・海津西庄と称した。正中二年(一三二五)海津東浜の地名がみえるので、この頃にはすでに東西に分れていたのであろう。蓮光れんこう寺蔵の寛正七年(一四六六)の仏像裏書に「海津西浜蓮光寺」とある。延徳三年(一四九一)三月一三日の西浜今智坊売券(総持寺文書)があり、西浜の今智坊が坂田郡内の土地を売却している。天文三年(一五三四)一二月吉日の海津東寿寄進状(竹生島文書)によれば、海津西浜に「旦過領」があり、僧侶の仮宿泊所が置かれていたと思われる。天正一六年(一五八八)四月一五日豊臣秀吉充行状によって、聚楽行幸につき海津西庄浜分内二〇二石が九条家に与えられた。同年八月一二日西庄西浜孫四郎等連署起請文によれば、西庄内西浜知行分が公家一一人に割当てられている。文禄二年(一五九三)頃の西庄西浜毛付注文では、九条家領の高二〇二石のうち四六石余が上納され残りは不作であった(以上九条家文書)

慶長五年(一六〇〇)佐久間安政(元和二年以降信濃飯山藩)領、寛永一五年(一六三八)幕府領、慶安四年(一六五一)徳川綱重(寛文元年以降甲斐甲府藩)領となる。宝永二年(一七〇五)幕府領となり、享保九年(一七二四)以降大和郡山藩領。


西浜村
にしはまむら

[現在地名]高松市新北町しんきたまち茜町あかねちよう西町にしまち宮脇町みやわきちよう一丁目・西宝町さいほうちよう一―三丁目・幸町さいわいちよう昭和町しようわちよう一―二丁目・扇町おうぎまち一―三丁目

高松城下の西に位置する。汝漁はぜ(現摺鉢谷川)を挟んで北東は西浜町、西は香東こうとう川、北は海。古くははまノ丁・西浜町とともに野原西浜のはらにしはまに含まれた(→西浜町。天正一六年(一五八八)生駒親正が高松城を築いたとき、城の西側を西浜村としたという(政要録)。はじめ城下のばん丁から香東川までの地域を称したと思われる。生駒親正は高松城築城の際年貢納入を拒否した百姓など一〇〇余人を天正一七年西浜村の浜で火刑に処している(讃岐国大日記)。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では西浜・東浜で高七九四石余であるが、前年には東浜を含めて二八石余が屋敷地のため引高となっており、城下町への組入れが進んでいた。


西浜村
ようすなむら

[現在地名]笠岡市金浦かなうら

吉浜よしはま村の東にあり、東は笠岡村、西は入海を挟み生江浜おえはま村。背後の標高一〇〇メートルの山上に陶山義高が築城したと伝える西浜城跡がある。文化六年(一八〇九)の願書(西浜村文書)に「既郷名魚漁を以村名と唱」とあるように、村名は古代魚渚いおすな(和名抄)の系譜を引くものといわれ、明治一九年(一八八六)の「地名索引」は「イヲスナ」と訓じ、笠岡市成立以前の金浦町の大字では「ヨウスナ」と発音した。また近世初頭の小堀政一の書状断簡(佐治文書)にも「やうすな」とみえる。しかし西浜と記し「ヨウスナ」と訓ずることには諸説がある。「小田物語」には慶長四年(一五九九)笠岡へ入部した毛利元康が「魚緒を西浜へ所替させ、猟師共行てより要害の為に堀をこしらへんと企て」とあり、元禄一四年(一七〇一)の覚(西浜村文書)にも「西浜村始リ申候事ハ百年已来ニ而御座候、其時分皆々猟師にて」とみえ、「小田物語」の記述と符合するところから、一般に村を挙げての移住があったためと考えられている。なお寛永備中国絵図では笠岡村西隣の現在地に「西浜村」があり、正保郷帳では当村のほかに笠岡村枝郷として「猟砂村」が載る。


西浜村
にしはまむら

[現在地名]和歌山市西浜・西浜一―三丁目・西小二里にしこにり一―三丁目・東小二里ひがしこにり町・まつおか一―三丁目・関戸せきど四―五丁目・今福いまふく三―五丁目・新高にいたか

海部あま郡に属し雑賀崎さいかざき浦の北に位置する。東は関戸村、北はみなと領。西は海に面して白砂青松の浜が続く。村中を南北にふる(現水軒川)が流れ、小名に小二里・栗栖屋くるすや大浦おうら水軒すいけんがある。「続風土記」は「此地古は荒浜の如くにて西に海を受たる浜なりし故西浜といふ、古人雑賀浦といひ又雑賀野といひ又吹上の浜なといひしも皆此あたりをいふ」と記し、続けて「後世今の松江の方より砂山洲觜となりて南の方に長くなり、西浜の前に突き出しより紀ノ川筋今の北島村の辺より南に流れて大浦に至りて西の方海に入る」という。


西浜村
にしはまむら

[現在地名]高砂市北浜町西浜きたはまちようにしはま

北脇きたわき村の南、たけ山の麓に位置する。印南いなみ郡に属した。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代を通じて姫路藩領。正保郷帳では田方一七七石余・畑方五六石余。天保郷帳では高三三五石余。寛保二年(一七四二)には塩田六町七反があった(増訂印南郡誌)。寛延二年(一七四九)の村明細帳(高砂市蔵)では人数一千一三(うち医師三・座頭一)、ほかに僧六、牛一〇、塩船六・船二四、郷蔵一。小物成は犬米・水主米・酒株・請林運上など。用水は野根のね池・春日かすが池など山麓の溜池に依存。明和九年(一七七二)の村明細帳控(船津家文書)では田高二一六石余・反別一二町四反余、畑高七五石余・反別一〇町余、新田畑高二五石余・反別三町四反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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