日本歴史地名大系 「笠岡村」の解説
笠岡村
かさおかむら
中央部を南流する
「日本書紀」などに散見する笠氏の本貫の地を当地とする説もある。南北朝期陶山氏は竜王山の峰続きに築城(笠岡山城)、西浜城から移り、山城の東方に町場を形成したと伝え、笠岡湊は瀬戸内海航路の拠点の一つであった。観応の擾乱の際には当地に足利直義方の軍勢(直冬方)が立籠り、足利尊氏方との間で激戦が展開された。直義方の軍勢を破った佐藤中務丞に対し、観応元年(一三五〇)一二月一八日尊氏は感状(相州古文書)を与えている。文安二年(一四四五)の「兵庫北関入船納帳」によれば、五月二四日大麦一三石・干鯛二駄・米一五石を積んだ当地からの船が兵庫北関へ入港しているのをはじめ、一〇月・一一月にも神島の塩などを積んだ船が北関へ入港している。弘治年間(一五五五―五八)になると、伊予の村上氏一族が当地に進出、「小田郡誌」などによれば、小早川隆景麾下の村上隆重(高重)は
笠岡村
かさおかむら
笠岡村
かさおかむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報