笠岡村(読み)かさおかむら

日本歴史地名大系 「笠岡村」の解説

笠岡村
かさおかむら

[現在地名]笠岡市笠岡・春日台かすがだい

中央部を南流する隅田すみだ川下流の扇状地に発達した村で、南は海を隔てて神島内浦こうのしまうちうら。西は竜王りゆうおう山など標高一〇〇―一五〇メートルの丘陵を境に西浜ようすな村・木之目このめ村、東は応神おうじん山・加入堂かにゆうどう山を境に富岡とみおか村・絵師えし村・馬飼まかい村など。古くから湊として栄え、近世も小田おだ後月しつき両郡の廻米、綿・畳表などの積出港として賑いをみせた。中期には代官所も設置され(幕末には備中倉敷代官所の出張陣屋)、西備地区の商業・交通・政治上の中核となった。

「日本書紀」などに散見する笠氏の本貫の地を当地とする説もある。南北朝期陶山氏は竜王山の峰続きに築城(笠岡山城)、西浜城から移り、山城の東方に町場を形成したと伝え、笠岡湊は瀬戸内海航路の拠点の一つであった。観応の擾乱の際には当地に足利直義方の軍勢(直冬方)が立籠り、足利尊氏方との間で激戦が展開された。直義方の軍勢を破った佐藤中務丞に対し、観応元年(一三五〇)一二月一八日尊氏は感状(相州古文書)を与えている。文安二年(一四四五)の「兵庫北関入船納帳」によれば、五月二四日大麦一三石・干鯛二駄・米一五石を積んだ当地からの船が兵庫北関へ入港しているのをはじめ、一〇月・一一月にも神島の塩などを積んだ船が北関へ入港している。弘治年間(一五五五―五八)になると、伊予の村上氏一族が当地に進出、「小田郡誌」などによれば、小早川隆景麾下の村上隆重(高重)伏越ふしごえの南西、吸江きゆうこう(約七〇メートル)に築城(笠岡城)、子景広と二代にわたり居城したと伝える。天正五年(一五七七)には毛利輝元が笠岡に本陣を構えた(五月二二日「穂田元清書状」厳島野坂文書)。小早川隆景の在陣も確認され(年未詳六月一六日「毛利輝元書状」同文書)、「尾道之米片時も早々笠岡へ差上度候」(年未詳「毛利輝元書状」山口県文書館所蔵文書)とあり、当地は毛利氏の備中進出・中国経営の拠点として重要であった。

笠岡村
かさおかむら

[現在地名]豊中町笠田笠岡かさだかさおか

まゆ山・鳥越とりごえ山・じん山の西麓に位置し、西部は平地。竹田たけだ村の東にあたる。丸亀に通じる伊予街道が通る。永禄一〇年(一五六七)と推定される一〇月二日の二宮木工助春実宛吉川元春書状(吉川家文書)に「讃州笠岡」がみえる。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では一千七九石余、うち新田悪所九一石余(宮領三石などを含む)。「西讃府志」によれば村の広さは東西一七町一六間・南北一八町二四間。高一千四九石余、反別は一三五町八反余、うち畑三六町六反余・屋敷三町余。

笠岡村
かさおかむら

[現在地名]秋田市下新城笠岡しもしんじようかさおか

丘陵の北側を西流する新城川沿いに集落が広がる。文禄元年(一五九二)の秋田実季分限帳(秋田家文書)に、「三百十五石八斗九升四合 十二丁村」「二百五十二石五斗九升 関場村」とある。安東(秋田)氏支配の頃には十二丁じゆうにちよう村・関場せきば村と称した。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に笠岡村六六三石とあり、享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」は「笠岡村 家員七軒。十二丁村廿軒、関根村十七軒、中野村三十九軒 正保三戌年開出、羽黒崎村六軒」と村の古い姿、支郷の存在を伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報