日本歴史地名大系 「笹間村」の解説 笹間村ささまむら 静岡県:榛原郡川根町笹間村[現在地名]川根町笹間上(ささまかみ)・笹間下(ささましも)、島田市笹間下南西流する笹間川の流域に位置し、北境に無双連(むそれ)山、東に高根(たかね)山(八七一・六メートル)、南に江松(えまつ)峠があり、周囲を山に囲まれた南北に細長い山村。中世には篠間・篠間郷とよばれ、江戸時代には篠間村とも記された(元禄郷帳など)。駿河国志太(しだ)郡に属し、西は同郡笹間渡(ささまど)村、同郡下泉(しもいずみ)村(現中川根町)など、北は無双連山を境に遠江国榛原郡藤川(ふじかわ)村小猿郷(こさるごう)(現本川根町)、東は志太郡瀬戸谷(せとのや)村(現藤枝市)・駿河国安倍(あべ)郡黒俣(くろまた)村(現静岡市)。東方の清笹(きよささ)峠を越えて駿府へ抜ける道、同様に清笹峠越で藤枝宿へ抜ける道があり、また森町(もりまち)村(現森町)方面へ出る秋葉道も通っていた。当村は一五ヵ村の枝郷に分れており、「駿河志料」は桑之山(くわのやま)(桑ノ山)・高日向(たかひなた)・三双(みならび)(三並)・日向(ひなた)・竹島(たけしま)・太平(おおたいら)・西迎(にしむかい)(西向)・大森(おおもり)・上河内(かみごうち)・石神(いしがみ)(石上)・粟原(あわはら)(現在はアオバラという)・二俣(ふたまた)・上平(うえだいら)・久野(ひさの)・日影(ひかげ)(日掛)・臼平(うすだいら)・尻高(しんたか)の一七ヵ村を挙げており、竹島より下を下組八ヵ村、石神より上を上組七ヵ村と称したという。 笹間村ささまむら 岩手県:花巻市笹間村[現在地名]花巻市北笹間(きたささま)・中笹間(なかささま)・南笹間(みなみささま)轟木(とどろき)村の南に位置し、北部を宇南(うなん)川が東流する。東は飯豊(いいとよ)村(現北上市)、南は後藤(ごとう)村(現和賀郡和賀町)。北から順に北笹間・中笹間・南笹間の大きく三地域に分けられ、「管轄地誌」によれば延宝年中(一六七三―八一)に北・中・南の三つの笹間村に分村したという。江戸期を通じて盛岡藩領であったが、元禄七年(一六九四)から宝永三年(一七〇六)までは当村のうち高一千九一五石余が五代藩主南部行信の弟旗本南部政信領、高一九六石余が同旗本南部勝信領となる。中笹間字槐田(さいかちだ)の宇南川右岸低台地上に中世の笹間館跡があり、館主は和賀氏一族の笹間氏と伝える。天正一八年(一五九〇)七月二八日の簡治部助書上(司東採集文書)によれば、和賀薩摩守義治の四男主馬は「笹間ト申所」を知行して笹間忠親を名乗っている。忠親は和賀氏没落後伊達政宗に仕え(「伊達世臣家譜」など)、慶長五、六年(一六〇〇、〇一)和賀氏旧領の回復を企てた岩崎一揆では首領となったが、伊達政宗の謀計によって切腹させられて和賀氏は滅んだ(「簡治部助覚書」北上簡文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by