日本歴史地名大系 「藤枝宿」の解説
藤枝宿
ふじえだしゆく
〔中世〕
観応元年(一三五〇)一二月日の伊達景宗軍忠状(駿河伊達文書)に「藤枝宿」とあるのが宿駅名としてみえる早い例であるが、これより前の「海道記」の作者某が貞応二年(一二二三)四月一二日当地を通り、「前島をすくるに波は立たねと、藤枝の市を通れは花は咲きかかりたり」と記した藤枝、あるいは弘安(一二七八―八八)頃の「遺塵集」に「ふち枝おかへ う津の山」とある「ふち枝」なども宿駅としての藤枝である。建武二年(一三三五)八月二日、鎌倉の北条時行らを討伐するため京都を発った足利尊氏は、一二日の小夜中山合戦の翌日当宿で一夜を明かし駿河国府に向かった(「足利尊氏関東下向宿次・合戦注文」国会図書館所蔵文書)。前掲伊達景宗軍忠状によれば、観応元年一二月尊氏と対立していた弟足利直義に属する遠江の勢力が駿河国に攻め寄せてくるというので、今川範氏は軍を率いて同月二二日当宿まで出陣したが、駿河国府北方の
永享四年(一四三二)九月、将軍足利義教は鎌倉公方足利持氏を牽制するため富士遊覧と称して駿河国府の守護今川範政のもとに下向したが、このとき当宿の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報