藤枝宿(読み)ふじえだしゆく

日本歴史地名大系 「藤枝宿」の解説

藤枝宿
ふじえだしゆく

[現在地名]藤枝市藤枝一―五丁目・本町一―四丁目・大手一―二丁目・水守

鎌倉時代以来、東海道の宿駅として存続し、江戸時代には江戸から二二番目の宿駅であった。北東の岡部おかべ宿(現岡部町)から一里二六町、南西の島田宿へは二里八町(宿村大概帳)。当宿は田中たなか城の城下町とされたので、東西に木戸と番所が置かれた。東海道は西木戸の西で徒歩渡りの瀬戸せと川と交差し、宿内の下伝馬しもでんま町には田中城への大手口があり、ここにも木戸と番所が置かれていた(「田中城絵図」藤枝市郷土博物館蔵、分間延絵図)

〔中世〕

観応元年(一三五〇)一二月日の伊達景宗軍忠状(駿河伊達文書)に「藤枝宿」とあるのが宿駅名としてみえる早い例であるが、これより前の「海道記」の作者某が貞応二年(一二二三)四月一二日当地を通り、「前島をすくるに波は立たねと、藤枝の市を通れは花は咲きかかりたり」と記した藤枝、あるいは弘安(一二七八―八八)頃の「遺塵集」に「ふち枝おかへ う津の山」とある「ふち枝」なども宿駅としての藤枝である。建武二年(一三三五)八月二日、鎌倉の北条時行らを討伐するため京都を発った足利尊氏は、一二日の小夜中山合戦の翌日当宿で一夜を明かし駿河国府に向かった(「足利尊氏関東下向宿次・合戦注文」国会図書館所蔵文書)。前掲伊達景宗軍忠状によれば、観応元年一二月尊氏と対立していた弟足利直義に属する遠江の勢力が駿河国に攻め寄せてくるというので、今川範氏は軍を率いて同月二二日当宿まで出陣したが、駿河国府北方の安部あべ(現静岡市)を本拠とする敵(狩野氏であろう)が国府に討入ってきたという知らせが届いたため、翌二三日当宿を引払って帰陣した。貞治四年(一三六五)臨済宗の僧抜隊得勝は病気のため藤枝にとどまり夏を過ごしている。このとき当地の富裕な信者が寺院を建立して抜隊を開山に迎えようとしたが、抜隊は街道沿いで騒がしい当地を嫌い遠州天方あまがた(現森町)に至って庵を結んだという(抜隊和尚行実)

永享四年(一四三二)九月、将軍足利義教は鎌倉公方足利持氏を牽制するため富士遊覧と称して駿河国府の守護今川範政のもとに下向したが、このとき当宿の鬼岩きがん寺が往復路の宿泊所となった(富士紀行・覧富士記・富士御覧日記)。文明五年(一四七三)八月一九日、幕府評定衆摂津掃部頭之親が連歌師(歌僧)正広らを伴い所領である益頭ましず庄に下り、庄内藤枝の長楽ちようらく寺に入っている(正広日記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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