日本歴史地名大系 「米ノ川村」の解説 米ノ川村こめのかわむら 高知県:高岡郡窪川町米ノ川村[現在地名]窪川町米奥(よねおく)・作屋(さくや)・中津川(なかつがわ)四万十(しまんと)川右岸にあり、南は仁井田(にいだ)郷分作屋村。「土佐州郡志」によれば米ノ川本村のほか、小村として作屋・川奥(かわおく)・壱斗俵(いつとひよう)・中津川・栗(くり)ノ木(き)・桑(くわ)ノ又(また)六ヵ村があった。しかし郷帳類では壱斗俵村が独立して高付され、また作屋・中津川両村の仁井田郷分と思われる地も別に高付されている。郷帳類にみえる米ノ川村はこれらを除いた松葉(まつば)川(四万十川)右岸を占める地であったと推定される。「仁井田郷談」(「南路志」所収)には、古く仁井田(にいだ)庄神田(こうだ)郷四村の一で南部(なんぶ)村ともいうとあり、応安三年(一三七〇)奥州南部の住人周防守高忠が開発し、出自地をとって村名としたとみえる。応永二六年(一四一九)大野見氏の家臣であった南部氏は姫野々(ひめのの)城(現葉山村)城主津野氏とともに大野見(おおのみ)城(現大野見村)を挟撃して破り、大野見殿を与津(よつ)浦に追いやった(南部氏家譜「仁井田郷談」所引)。以来、南部氏は津野氏に属し、津野氏によって神田郷の地を与えられたという。天正一六年(一五八八)の仁井田壱斗俵村地検帳は仁井田郷のうちの津野氏領分の検地結果の集計で、「作野番之内」として米川(こめのかわ)村・栗ノ木村・桑ノ股村がみえ、総地積は都合四二町八反余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by