米良・米良山(読み)めら・めらやま

日本歴史地名大系 「米良・米良山」の解説

米良・米良山
めら・めらやま

九州山地の中央部、一ッ瀬川上流域の総称で、現在の児湯郡西米良村全域と同郡木城きじよう町の西端域、および西都市の北西域を占める。中世から史料に散見し、元来は日向国であったと考えられるが、江戸時代には肥後国球磨くま郡に属していた。米良三山とよばれる市房いちふさ(一七二〇・八メートル)石堂いしどう(一五四七・四メートル)天包あまつつみ(一一八八・八メートル)などをはじめ、一帯に標高九〇〇―一二〇〇メートル内外の山々が連なる山間の地で、田地は少なく、かつては焼畑農耕や狩猟をおもな生業としていた。なお江戸時代に米良の領主であった米良氏は肥後菊池氏の後裔と伝え、室町後期からその存在が確認できるが、いつ頃当地に入部したかについては諸説がある。

〔中世〕

年未詳七月二一日付の島津立久(文明六年没)書状(旧記雑録)によると、立久は三俣みまた(現三俣町)の和田氏に対して「米良」、昌木まさき(真幸)に不審があれば知らせてほしいと伝えている。伊東祐充が家督継承した後の大永―享禄年間(一五二一―三二)頃、祐充らの義父福永伊豆守は「嶽ノ米良」(米良氏)を近づけ、小原氏・椎葉氏・黒木氏らを被官同然に使っていたとされる(日向記)。祐充の死後、祐充の叔父祐武と祐充の弟祐清(義祐)が争い祐武は殺害される。そののち祐武の子左兵衛佐は「米良山」を頼りとして平野ひらの(現西都市)へ退去した。米良山とは米良石見守を中心とする「山裏一揆」に結集する面々で、渡河どがわ(現南郷村)雄八重おはえ(尾八重、現西都市)仲俣なかのまた(現木城町)銀鏡しろみ(現西都市)小崎こざき(現椎葉村)神門みかど(現南郷村)・石尾・平野、いし(現木城町)三納みのう(現西都市)・青山ほか嶺々谷々の人々であった(日向記)。これらの人々は天文三年(一五三四)二月、左兵衛佐の復活と祐清の排除を求めて高城たかじよう(現木城町)に侵入したが撃退された。その際、彼らは「米良一揆」ともよばれている(日向記)。年未詳二月七日付の北原久兼書状(肝付文書)によると、「須木裏末取(米良カ)」での肥田木氏の内乱を伊東氏の老中が調停しており、肥田木氏は米良方面の領主の可能性がある。

米良一揆は肥後国人吉方面へも進出を企てていた。肥後相良家の「八代日記」天文二年四月五日条には「米良より久米ニよする」、同一四年七月一二日条には「米良ヨリ湯前ニ動候」とみえ、肥後の久米くめ(現熊本県多良木町)湯前ゆのまえ(現同県湯前町)方面に米良一揆が侵入していたとみられる。また同二三年二月には落飾ののち日向方面に向かおうとした肥後の菊池義武真幸まさき越・米良越を阻まれており、米良一揆は日向と肥後の境界領域にあって交通路を掌握し、日向・肥後両方面への進出を盛んに企てていたとみられよう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android