日本大百科全書(ニッポニカ) 「綴織」の意味・わかりやすい解説
綴織
つづれおり
綴錦(つづれにしき)ともいい、緯(よこ)糸に二色以上(数十色に及ぶものがある)の色糸を使い、模様部分だけ織り綴(つづ)るようにして模様を表した織物。緯糸は模様部分では織耳から織耳まで通っておらず、つづら折りのように蛇行して織り進められるので、綴織の名称がつけられたのであろう。
一般に、経(たて)糸にはじょうぶな麻または木綿を使い強く張ったのち、下絵に従って数十種の甘撚(あまよ)りにした羊毛あるいは絹(ときには金銀糸を使う)の色緯糸を一部分ずつ小さな杼(ひ)で通しながら、つまさきで手前にかき寄せ、筋立(すじたて)(櫛(くし)状の織詰め具)で軽く寄せながら織る。組織的には平織の変化組織であるが、緯糸は色の境目で折り返されて、編むように織り進められるから、その部分には経方向にすきまができる。これを「はつりの目」とよんでいる。このすきまの部分を埋めるために、両方の接する緯糸を互いに絡めあって防止する。
この織物は、各地で自然的に修得された製作技法であったとみられる。エジプト第18王朝のアメンヘテプ2世(在位前1450~前1425)の王章を入れた綴織が、もっとも古いとされているが、同時代のものは、ペルーの海岸砂漠地帯でも出土しており、西アジアでの綴織起源説は疑問である。古いものではコプト裂(ぎれ)、ペルーのプレ・インカ裂が知られ、フランスのゴブラン織、中国の刻糸(こくし)が著名である。日本では、正倉院裂、奈良県當麻(たいま)寺の當麻曼荼羅(まんだら)、京都東寺の犍陀縠糸袈裟(けんだこくしけさ)に綴織、あるいは、その変化組織である織成(しょくせい)がみられるが、いずれも中国からの舶載品とみられ、国産化は近世以後である。18世紀前半に、明(みん)・清(しん)の刻糸に倣って京都西陣(にしじん)の林瀬平(せへい)が初めて織り出し、19世紀には紋屋次郎兵衛が祇園(ぎおん)占出(うらで)山の日本三景図を織り出している。
[角山幸洋]