綾城跡(読み)あやじようあと

日本歴史地名大系 「綾城跡」の解説

綾城跡
あやじようあと

[現在地名]綾町北俣

綾北あやきた川と綾南川に挟まれた西から東へ延びる丘陵東端にある。東側は綾町の市街地。阿屋あや城とも記され、たつが城・龍之尾たつのお城ともよばれた(宮崎県史蹟調査・三国名勝図会)築城の時期、築城主とも不明だが、遅くとも応永(一三九四―一四二八)頃には築かれていたものか(「島津元久譜」旧記雑録)

文明六年三州処々領主記(都城島津家文書)には、伊東氏知行の山東さんとう城の一として阿屋がみえる。文明一六年(一四八四)島津氏一族の内訌に端を発した飫肥おびをめぐる合戦で、櫛間くしま(現串間市)伊作久逸の要請で伊東勢が出陣した際、綾衆は伊東祐国の弟祐邑の軍勢に組織されていた。永正七年(一五一〇)伊東尹祐が家臣垂水又六から奪って夫人とした福永伊豆守娘が懐妊すると、家臣の長倉若狭守・垂水但馬守は尹祐の行動を批判しその不興を買った。また長倉若狭守のもつ綾地頭職を所望する稲津越前守はこれに乗じて讒言をしたため、長倉・垂水両氏は九月一日綾城に籠った。一〇月一三日尹祐夫人福永氏が男子を産むと尹祐は宮原みやばるまで出陣、一〇月七日長倉・垂水両氏は自刃した。この事件は綾の乱とよばれる(日向記)。だが垂水新兵衛系図写(予章館文書)は、垂水土持氏一族の垂水但馬守祐元・秀秋・秀俊らが、綾城で尹祐の家老長倉若狭とともに討死したとみえている。その後綾城は稲津越前守に与えられた(日向記)。天文二年(一五三三)八月伊東祐充(福永氏所生)が没すると家督などをめぐって伊東氏内部で争いが起こり、当初綾衆は伊東祐清に殺害された伊東武蔵守祐武の嫡男左兵衛佐方にくみしたが、一一月二二日からの合戦で財部衆が祐清方につくと綾衆も祐清方に転じた(日向記)。この間一二月一五日夜には真幸まさき表の北原氏の軍勢と北郷衆・新納衆が連合して伊東氏方の守る綾城に攻め入り、守永もりなが(現国富町)を落した(「壱岐賀州年代記」旧記雑録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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