日本歴史地名大系 「縁城寺」の解説
縁城寺
えんじようじ
山号発信貴山。高野山真言宗(もと嵯峨大覚寺末)、本尊の木造千手観音立像は平安時代の作で重要文化財。
草創については明確にしがたいが、縁城寺千手院縁起(寺蔵)は、
と記し、桓武天皇の時、当山の地勢が平安京に似ていることから縁城寺の号を賜ったと称する。また弘法大師を中興開山とする由縁について「弘仁年中弘法大師当寺ニ三蔵ノ書アルコトヲ聞キテ来リ、閲シ深ク信貴ヲ発シ因テ山ヲ発信貴ト称シ、自ラ山号寺号ヲ書キテ又浄菩提心ノ像ヲ画キ当寺ニ残ス、故ニ弘法大師ヲ当山ノ中興トス」と記す。其後村上天皇の時、「天衣記」を叡覧に供するようにとの勅宣があったが、寺僧が秘して応じなかった。そのため雷が落ちるなどして寺運が衰えたが、一条天皇の時寛印供奉の奏により勅願寺として堂舎が再建された。爾来二五坊を数えたという。
寺蔵の永享一二年(一四四〇)八月一〇日付寄進状(写)に「彼霊場者千手観音化度地、梵天帝釈御作尊、善無畏三蔵瑞応砌成覚上人建立処也、光仁天皇寺号勅定、一条院勅願寺寛印供奉之再興利益殊勝霊砌也」とあり、中世には右の縁起を称していた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報