織田得能(読み)おだとくのう

精選版 日本国語大辞典 「織田得能」の意味・読み・例文・類語

おだ‐とくのう【織田得能】

  1. 真宗大谷派の学僧。号は雲渓。「仏教大辞典」を編集万延元~明治四四年(一八六〇‐一九一一

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「織田得能」の意味・わかりやすい解説

織田得能
おだとくのう
(1860―1911)

明治時代の真宗大谷派の僧。号は雲渓(うんけい)。越前(えちぜん)国(福井県)坂井郡翫香寺(かんこうじ)の生田恵海(いくたえかい)の三男として生まれる。幼名は貞。1872年(明治5)僧となり、1888年より3年間、シャム(タイ)を訪れて南方仏教視察した。帰国後は東京・浅草の宗恩(そうおん)寺に入寺して織田姓を名のる。1899年より、情熱を込めて完全な『仏教大辞典』の編纂(へんさん)にかかったが、幾多の苦難などにより神経衰弱となり、中途にして病院で没した。『仏教大辞典』は没後1916年(大正5)に刊行され、世に「織田辞典」といわれ、『国文学十二種仏語解釈』とともに高い評価を得た。

[石上善應 2017年5月19日]

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朝日日本歴史人物事典 「織田得能」の解説

織田得能

没年:明治44.8.18(1911)
生年:万延1.10.3(1860.11.15)
明治期の真宗の僧。独力で完全な仏教大辞典を著したことで有名。越前国(福井県)翫香寺恵海の子。福井で教職にあったが,明治15(1882)年東本願寺学寮に入り仏教学を学び,さらに唯識倶舎・律を学ぶ。同21年からタイに遊学し仏教事情を視察,同24年東京宗恩寺に入ったが,同31年巣鴨監獄事件により公職を剥奪された。同34年より井上哲次郎の勧めで『仏教大辞典』の編纂にとりかかり,10年間独力で進めたが,完成を目前に病没した。<著作>『仏教大辞典』『三国仏教略史』<参考文献>常光浩然『明治の仏教者』

(草野顕之)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「織田得能」の解説

織田得能 おだ-とくのう

1860-1911 明治時代の仏教学者。
万延元年10月3日生まれ。真宗大谷派の僧。京都高倉学寮でまなぶ。明治20年島地黙雷(もくらい)と「三国仏教略史」を刊行。32年「仏教大辞典」の編集をはじめるが,明治44年8月18日完成を前に死去。52歳。辞典はのちに出版され「織田辞典」とよばれた。越前(えちぜん)(福井県)出身。福井師範卒。旧姓は生田。号は雲渓。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「織田得能」の意味・わかりやすい解説

織田得能
おだとくのう

[生]万延1(1860).10.3. 越前
[没]1911
浄土真宗の学僧。 1891年東京浅草松清町の宗恩寺に入り,没するまで生涯をかけた『仏教大辞典』 (1巻,1917) を完成した。

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367日誕生日大事典 「織田得能」の解説

織田 得能 (おだ とくのう)

生年月日:1860年10月3日
明治時代の仏教学者。真宗大谷派
1911年没

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