日本歴史地名大系 「能地村」の解説 能地村のうじむら 広島県:三原市能地村[現在地名]三原市幸崎(さいざき)町能地末光(すえみつ)村の南、瀬戸内海沿岸に立地。「芸藩通志」に「野牛村」とも書くとある。北は標高二五〇―四〇〇メートルの山地で、西の渡瀬(わたせ)村から流れる畑岡(はたおか)川の本支流域と海岸部の緩傾斜面におもに耕地が展開。本能地(ほんのうじ)の字木保(きやす)から縄文後期の磨製石斧片が出土し、渡瀬村に近い丘陵南面からは横穴式石室をもつ清泰寺(せいたいじ)古墳が発見された。中世には沼田(ぬた)庄浦(うら)郷に含まれ、忠海(ただのうみ)(現竹原市)・渡瀬の両村とともに沼田小早川氏一族浦氏の根拠地であった。浦氏は南北朝初期小早川宣平の七男氏実のとき分立し、当村西端の、三ヵ村の境に位置する久津(ひさつ)城に拠り、のち忠海村に賀儀(かぎ)城を築城、一族の丸山氏は当村中央部の独立丘陵(一三五メートル)に丸山(まるやま)城を築き、小早川水軍として活躍した。 能地村のうじむら 兵庫県:揖保郡新宮町能地村[現在地名]新宮町能地大屋(おおや)村の北、平野(ひらの)村の西に位置し、栗栖(くりす)川の中流域に立地する。揖西(いつさい)郡に属し、美作道が通る。慶長国絵図には「くまち村」とみえる。領主の変遷は芝田(こげた)村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高二四三石余、高二〇〇石余。正保郷帳では田方一五七石余・畑方四三石余。元禄郷帳では高二一一石余。天保郷帳では高二一八石余。延宝七年(一六七九)の龍野藩領郷村高帳(脇坂家文書)によると、免は本田畑五ツ五分・新畑三ツ。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by