日本歴史地名大系 「野牛村」の解説 野牛村やぎゆうむら 千葉県:茂原市野牛村[現在地名]茂原市野牛東流する鶴枝(つるえ)川を挟んで上永吉(かみながよし)村の南西に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に野牛村とみえ、高二二四石。寛永二年(一六二五)旗本富永領となったとみられ(寛政重修諸家譜)、村高・領主は以後変化なく幕末に至ったと思われる(旧高旧領取調帳など)。寛政五年(一七九三)の覚(露崎家文書)では田方一二町四反余・畑方一〇町七反余、家数二九・人数一三五、農間稼として男女とも菅笠を作る。当村と南東の台田(だいだ)村は往古より猿袋(さるぶくろ)・三(さん)ヶ谷(や)・上永吉・下永吉・立木(たちき)・早野(はやの)よりなる五郷組合と、中善寺(ちゆうぜんじ)・石神(いしがみ)、坂本(さかもと)・千手堂(せんじゆどう)・関原(せきばら)・米満(よねみち)(現長南町)よりなる五郷組合の二つをつくっていたが、文政一〇年(一八二七)幕府は新しく関東取締代官を設け、村方には出役の仕事を助ける目的で寄場組合村を結成させたため、同一一年に中善寺村など八ヵ村の五郷組合は坂本村を親村とする改革組合村に改変され、これに伴って当村と台田村は猿袋村などからなる五郷組合を脱退しようとして訴訟となった。 野牛村やぎゆうむら 埼玉県:南埼玉郡白岡町野牛村[現在地名]白岡町野牛東は高岩(たかいわ)村、南は爪田(つめた)ヶ谷(や)堀川・庄兵衛(しようべえ)堀川を限る。旧日(につ)川の流路にあたり、中央部に横たわる微高地はかつての自然堤防。騎西(きさい)領のうち(風土記稿)。慶長六年(一六〇一)陸奥仙台伊達氏の鷹場に指定された(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)。正保四年(一六四七)川越藩松平氏の検地があり(風土記稿)、田園簿によると田高一九一石余・畑高一〇九石余、同藩領。ほかに野銭永二五〇文があった。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高五六五石余、反別は田方四四町余・畑方二八町九反余、ほかに新開高二二六石余、田方一七町七反余・畑方一一町五反余。 野牛村のうしむら 青森県:下北郡東通村野牛村[現在地名]東通村野牛下北丘陵の北端に発し、津軽海峡に北流する野牛川の中流に位置する。野牛川の河口近くに野牛沼、海岸沿いに支村の入口(いりぐち)がある。東は岩屋(いわや)村、南は蒲野沢(がまのさわ)村・猿ヶ森(さるがもり)村、西は蒲野沢村の支村石持(いしもち)と接する。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に高四八・四石余、うち畑五・三石余とみえ、戸口は二〇軒・一五五人。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数二八で駅場が置かれ、支村入口は家数二。田名部(たなぶ)通に属する。「原始謾筆風土年表」の天明元年(一七八一)の項に「野牛里で鍋を鋳とて釣屋浜より鉄砂を搬たりしも、密々にハ鋳銭との風聴にて数月ならすも止にけり」とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by