能美庄(読み)のみのしよう

日本歴史地名大系 「能美庄」の解説

能美庄
のみのしよう

古代の能美郡野身のみ(和名抄)に成立したとみられる庄園。庄域は能美丘陵北西端からかけはし川中流域に至る一帯、現在の辰口たつのくち町北西部から寺井てらい町、および小松市北東部にかけてと推定される。平安末期に開発・寄進されたもので、本家職は京都長講堂、領家職は毘沙門びしやもん(当時は現京都市上京区、現在は同市山科区)が有し、鎌倉時代には庄内重友しげとも(現寺井町)地頭職は板津氏(長野氏)に相伝された。鎌倉時代中期以降、史料に山城石清水いわしみず八幡宮末社加賀国八幡別宮(のちの多田社、現小松市の多太神社)領として乃身庄の庄名がみえはじめ(のち一部が京都建仁寺両足院領となる)、初期には埴田氏(橘氏)が惣公文職を伝領している。

建久二年(一一九一)一〇月の長講堂所領注文(島田文書)に「能美庄」とみえ、以後長講堂領の庁分の一つとして、後白河法皇―息女宣陽門院覲子―養女鷹司院―後深草天皇―伏見上皇―後伏見上皇―光厳上皇へと伝領された(貞応二年以後と推定される「宣陽門院領所領目録」同文書など)。なお寿永二年(一一八三)木曾義仲倶利伽羅くりから峠の合戦勝利後、「のみの庄」を菅生すごう(現加賀市菅生石部神社)に寄進したという(「平家物語」巻七)。建保二年(一二一四)二月一七日、平親範は退転していた尊重そんじゆう(親範一門の祖、親信による建立)など三ヵ寺(毘沙門堂の前身)を、新たに京都出雲いずも路に統合再興することについて一族らの同意を得ているが、このときに尊重寺領として庄名がみえる(「平親範置文」洞院部類記)。おそらくは親範の一族平親国が加賀守であった安元三年(一一七七)から治承三年(一一七九)一一月までの間に当庄は開発され、氏寺の尊重寺に寄せられ、さらに本家職が長講堂に寄進されたのであろう。

建仁元年(一二〇一)七月二〇日板津成景とみられる介某が「能美御庄内重友保」を次男江沼三郎(長野景高)に譲っている(「介某譲状案」石清水文書)。以後、同保の地頭職は嘉禄二年(一二二六)景隆から嫡孫盛景へ、弘安二年(一二七九)には盛景から盛能に相伝された(→重友保


能美庄
のうみのしよう

和名抄」に記される佐伯郡海部あま郷内に含まれたものと思われ、能美島全域に比定される。立荘の時期は明らかでないが、「高野山興廃記」に「寛治五年二月十九日、白河院高野御幸第二度、御年三十八、同廿日即於奥院修御仏事、(中略)又今度三十人聖人日食各一升、夏冬衆料相祈料、以安芸国能美庄、用途百八石、限永代寄進」とあり、寛治五年(一〇九一)以前に院領荘園として成立していたこと、この年白河院の紀州高野山御幸を契機に本家取得分のうち一〇八石が高野山へ寄進されたことなどがわかる。荘名は高野山検校帳(高野山文書)同年二月一九日の記事に「能梨庄」、建仁三年(一二〇三)一〇月二〇日付の紀伊国司庁宣(同文書)に「乃見庄」、嘉元三年(一三〇五)の金剛峯寺御影堂奉納御物文書新定目録上(同文書)に「乃美庄」、応永七年(一四〇〇)正月一八日付の高野山金剛峯寺々領注文(同文書)に「能見庄」などとみえる。

当庄は、安元二年(一一七六)二月日付の八条院所領目録(内閣文庫蔵山科家古文書)、建長二年(一二五〇)六月二日付の吉田資経処分状写(京都大学蔵「御遺言条々」所収)、嘉元四年六月一二日付の昭慶門院御領目録(竹内文平氏旧蔵文書)などに名がみえることから、白河上皇鳥羽上皇―八条院―春嘉門院―順徳天皇―幕府没収―後高倉院―安嘉門院亀山上皇後宇多上皇―後醍醐天皇の順に伝領されたと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

ベートーベンの「第九」

「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...

ベートーベンの「第九」の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android