日本歴史地名大系 「能美庄」の解説
能美庄
のみのしよう
- 石川県:能美郡
- 能美庄
古代の能美郡
建久二年(一一九一)一〇月の長講堂所領注文(島田文書)に「能美庄」とみえ、以後長講堂領の庁分の一つとして、後白河法皇―息女宣陽門院覲子―養女鷹司院―後深草天皇―伏見上皇―後伏見上皇―光厳上皇へと伝領された(貞応二年以後と推定される「宣陽門院領所領目録」同文書など)。なお寿永二年(一一八三)木曾義仲は
建仁元年(一二〇一)七月二〇日板津成景とみられる介某が「能美御庄内重友保」を次男江沼三郎(長野景高)に譲っている(「介某譲状案」石清水文書)。以後、同保の地頭職は嘉禄二年(一二二六)景隆から嫡孫盛景へ、弘安二年(一二七九)には盛景から盛能に相伝された(→重友保)。
能美庄
のうみのしよう
「和名抄」に記される佐伯郡
当庄は、安元二年(一一七六)二月日付の八条院所領目録(内閣文庫蔵山科家古文書)、建長二年(一二五〇)六月二日付の吉田資経処分状写(京都大学蔵「御遺言条々」所収)、嘉元四年六月一二日付の昭慶門院御領目録(竹内文平氏旧蔵文書)などに名がみえることから、白河上皇―鳥羽上皇―八条院―春嘉門院―順徳天皇―幕府没収―後高倉院―安嘉門院―亀山上皇―後宇多上皇―後醍醐天皇の順に伝領されたと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報