日本歴史地名大系 「脇野村」の解説 脇野村わきのむら 佐賀県:伊万里市脇野村[現在地名]伊万里市東山代町(ひがしやましろちよう)脇野烏帽子(えぼし)岳山麓の丘陵地帯にあり、その中を脇野川が北流し、日尾(ひお)や天神(てんじん)の突出した岬、長浜(ながはま)の入江で屈曲した海岸に至る。この辺りは塩田に利用され数次にわたり干拓された。慶長絵図に村名がみえる。村内の岩戸山宝積(ほうしやく)寺は現在地に移転する前、白蛇(しろへび)山洞窟から岩戸(いわと)山にかけての地域にあったという。江戸期に立てられたという山代諧・栄の墓がある。山代囲以来の菩提寺である。真言宗で黒髪山大智(だいち)院の末寺であった。「岩戸山宝積寺創立史」によると、久安五年(一一四九)源直が山(やま)ン寺(てら)総持(そうじ)寺の属下として岩戸山に祈願道場として建立、山林四町八段を寺領に寄進したのが始まりである。 脇野村わきのむら 岐阜県:海津郡平田町脇野村[現在地名]平田町脇野土倉(つちくら)村の南、揖斐(いび)川左岸に立地する。慶長郷帳にみえる脇の々村は当村と考えられ、高六九五石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では堀直寄(越後長岡藩)領。同五年の竹腰山城守知行方目録(村瀬文書)に村名がみえる。正保郷帳では田五五〇石余・畑一四四石余で、尾張藩領。明暦覚書によれば概免四ツ三厘余で、人数三二二、馬三二。「濃州徇行記」には家数七一・人数四七七、馬一三とあり、物産に麦・稗のほか木綿・たばこなどをあげる。明治五年(一八七二)の村明細帳によれば、田五七〇石余・畑一五七石余、反別田五五町七反余・畑一五町九反余、家数八二、男一八五・女一九六、馬八。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by