光円寺(読み)こうえんじ

日本歴史地名大系 「光円寺」の解説

光円寺
こうえんじ

[現在地名]福山市大門町津之下

かつては四方を山に囲まれた静寂な地であったが、近年付近の山地が開発され、景観は一変した。

海雲山と号し真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。戦国時代野々浜ののはま塩飽氏の男光円が一寺を草創し実名をもって寺号としたという(西備名区)大門だいもんの藤間光重の子光明教円の開基とも伝える(備陽六郡志)。また「福山志料」によると、寺の縁起では、光円は野々浜の明知山あけちやま城主河野(藤間)刑部左衛門尉光重の嫡男で、弘治年中(一五五五―五八)備中笠岡かさおか(現岡山県笠岡市)の城主陶山氏に攻められて落城、光重は討死、光円は大門の海雲かいうん寺で出家し、名も立円と改め、弟幾三郎も光明と号し、家臣もまた仏門に入り明正と号した。弟の開いた光明こうみよう寺はのちに福山城下形成の際三吉みよし村に移り、明正は安那やすな御領ごりよう(現深安郡神辺町)明正みようしよう寺を建立。


光円寺
こうえんじ

[現在地名]柏崎市東本町一丁目

香積こうじやく寺門前町にある。真宗大谷派、護方山と号する。由緒によると、もとは天台宗で金砂山円光えんこう寺と号したという。また越後平氏の城氏の挙兵に対し討伐に当たった佐々木盛綱が親鸞の弟子となり、入道西念を称して越後・信濃の教線拡大のため所々巡歴の折、当地に所縁を求めて草庵を結び、暫時とどまったという。八世道性のとき、蓮如との縁で「柏崎村光円寺」と記した阿弥陀の画像を与えられたという。


光円寺
こうえんじ

[現在地名]丸岡町山竹田

山竹田やまたけだの西山麓にある。浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。もと山竹田村の道場で、慶長七年(一六〇二)本専ほんせん寺の寺号を許されて道場を継承した空玄に対し、血脈相承を主張する正信が訴えを起こし、分立したのが当寺で、この裁決にあたった本願寺は、承応三年(一六五四)正信の子正淳に光円寺の寺号を許したという。


光円寺
こうえんじ

[現在地名]神岡町和佐保

二十五にじゆうご山山麓、現南平みなみびらの和佐保銀山村集落中央に位置する。宝福山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。「飛州志」には高山素玄そげん寺末、開山楽翁秀村、往古始祖未詳とみえる。「飛騨国中案内」では、高山素玄寺末、高一石三斗余、畑屋敷合八反一畝余、ただし境内高三斗七升余、開基年号不分明とある。寺伝によれば、宝暦年中(一七五一―六四)洪水のため山腹谷間の土砂が流出し、銀山鉱夫飯場等をひとのみにした。


光円寺
こうえんじ

[現在地名]大塔村大字簾

すだれ集落最高所にある。光明山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。寺蔵縁起によれば、建保二年(一二一四)開基禅心(源頼政の後胤源頼康)禅心ぜんしん寺を建立したのに始まるといい、文明七年(一四七五)一一世唯信が蓮如に帰依して真宗に改宗、同一三年に再興されたという。


光円寺
こうえんじ

[現在地名]稲沢市西島町 藪田

如雪山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。文禄三年(一五九四)僧祐珍の創建(徇行記)といい、「稲沢市内寺院調」では元亀年中(一五七〇―七三)肥後左京大夫の四男孫太郎定胤が出家して祐西と号し創建したと伝える。


光円寺
こうえんじ

[現在地名]中川区富田町万場 郷内中

臥竜山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。創建は不詳だが、古くは天台宗で万場の北島まんばのきたじまにあり、天文一九年(一五五〇)僧鎮教が当地に移し再興したという。


光円寺
こうえんじ

[現在地名]佐賀市中の館町

乾享けんこう院の南西。月潭山と号し臨済宗南禅寺派。本尊は釈迦如来。天文二三年(一五五四)竜造寺隆信によって創建された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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