中国、周時代の斉(せい)の都が置かれた地。現在は山東省淄博(しはく)市に属す。周初に太公望呂尚(りょしょう)が封ぜられた営邱(えいきゅう)の地といわれる。その後、紀元前859年に斉の献公(けんこう)がここに都を定め臨淄(りんし)と名づけた。春秋時代には桓(かん)公が覇者として、戦国時代には田氏一族が七雄の一国として、ここを中心に活躍した。華北第一の都市としてとくに文芸の中心として栄えたが、五胡(ごこ)十六国時代(304~439)から衰えていった。現在の城壁は隋(ずい)代のもので周囲2キロメートルにすぎないが、斉の故城址(じょうし)は周囲約16キロメートルでほぼ方形、南西隅に小城址があり、その中に営邱に比定される小丘がある。城外南東には田氏四王墓といわれる四大古墳もある。
[春日井明]
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…人口は391万(うち市区は254万)(1994)。もともとこの市域は,淄川県,博山県,臨淄県などの地であったが,1945年,日本軍の占領が終わると,炭田のある工業地区として発達していた淄川,博山の両鉱区を合して淄博特区がつくられた。さらに49年,淄博工鉱特区とされ,50年,市に移行。…
…のち斉の正卿の国氏,高氏を追放して国政を掌握し,前386年斉の康公を幽閉して国を奪い,周王より諸侯として承認された。威王,宣王のとき強盛となり,都の臨淄(りんし)(山東臨淄県)は最大の都市として繁栄,多数の学者も集まった(稷門(しよくもん))。前284年燕など5国に攻められて衰え,前221年秦に滅ぼされた。…
… 戦国時代,領土国家の成立とともに,列国の国都の巨大化が顕著となる。塩の商品化による富の集積で名高い,山東省斉の都臨淄(りんし)では,1.7km×1.2kmの内城と2.6km×4.0kmの外郭をもつ都市域の中に7万戸が住んだ。1戸の占有面積は漢代の平均22~32m2に比べて数倍に達するが,臨淄の繁華街が〈肩は摩(すれ)あい,轂(ながえ)はあい撃(う)つ〉と表現される稠密さを勘案すると,ここでも外郭内には相当広大な田地や無人区があったと思われる。…
※「臨淄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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