(読み)セイ

デジタル大辞泉 「斉」の意味・読み・例文・類語

せい【斉】

中国の国名
春秋時代列国の一。武王によって呂尚りょしょう太公望)が封ぜられた国。現在の山東省の地。都は臨淄りんし。前7世紀、桓公の時に覇者となったが、前379年、重臣の田氏に滅ぼされた。姜斉
戦国七雄の一。前379年、田氏が国政を奪い建国。前4世紀後半に最盛期を迎え、山東省の全域を支配したが、前221年、に滅ぼされた。田斉

せい【斉〔齊〕】[漢字項目]

常用漢字] [音]セイ(漢) サイ(慣) [訓]ととのえる ととのう ひとしい
凸凹がなく等しくそろっている。そろえる。ととのえる。「斉一斉唱一斉均斉整斉修身斉家
中国、春秋時代の国名。「斉東野人田斉
[名のり]きよ・ただ・ただし・とき・とし・なお・なり・ひさし・まさ・むね・よし

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精選版 日本国語大辞典 「斉」の意味・読み・例文・類語

せい【斉】

  1. 中国の国名。
  2. [ 一 ] 紀元前三七九年まで続いた周代の諸侯国の一つ。周の武王によって呂尚(太公望)が封ぜられた国。山東を領有。前七世紀に桓公の富国強兵策により五覇となった。二九世で、重臣の田氏に国を奪われた。姜斉(きょうせい)
  3. [ 二 ] 戦国の七雄の一つ(前三七九‐前二二一)。周初以来の斉を、重臣の田氏が奪って建国。前者と区別するために田斉とも呼ばれる。山東を領有。前四世紀後半に最盛期に達したが、前二八四年燕に敗れて国力が傾き、秦・趙に圧迫され、やがて秦に滅ぼされた。都の臨淄を中心に商業活動が盛んで、刀貨が流通し、学問も栄えたので、諸子百家の中心地となった。
  4. [ 三 ] 南北朝時代、南朝の第二王朝(四七九‐五〇二)。通称は南斉。宋の武人蕭道成(高帝)が宋の順帝の禅譲により建国。蕭(梁の武帝)に国を奪われ、七代で滅んだ。
  5. [ 四 ] 南北朝時代、北朝の王朝(五五〇‐五七七)。通称は北斉、高斉。東魏の高洋(文宣帝)が建国。北周に滅ぼされた。
  6. [ 五 ] 南宋初期、金の建てた王朝(一一三〇‐三七)。金の将軍宗翰が南宋の降臣劉予を皇帝として建国。山東、河南、陝西を領有したが、宗翰の失脚後廃された。

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普及版 字通 「斉」の読み・字形・画数・意味


常用漢字 8画

(旧字)齊
人名用漢字 14画

[字音] セイ・シ・サイ
[字訓] ととのう・ひとしい・つつしむ・いむ

[説文解字]
[甲骨文]
[金文]

[字形] 象形
髪の上に、三本の(しんけい)を立てて並べた形。祭祀に奉仕するときの婦人の髪飾り。祭卓の形である示を加えると齋(斎)となり、斎敬をいう。〔説文〕七上に「禾麥(くわばく)穗を吐きて、上らかなり」と禾穂の象とするが、髪飾りの整うことをいう字である。を中央に集める形は參(参)で、(かんざし)の「参(まじ)わり」「参差(しんし)」として美しい意となる。〔詩、召南、采〕「齊(うるは)しき季女り」の齊を、〔玉〕に引いてに作り、婦人飾の姿をいう。殷周期の方鼎を、自名の器に「(せい)」としるしており、斉に方斉の意がある。訓義の多い字であるが、斉敬の義の引伸義が多い。

[訓義]
1. そろう、ととのう、髪飾りがととのう。
2. つつしむ、おごそか、うやうやしい、神につかえる、いむ。
3. おなじ、ひとしい、正しい。
4. つとめる、すみやか。
5. まぜあわせる、和する、あんばいする。
6. 国の名。

[古辞書の訓]
〔名義抄〕齊 ヒトシ・トトノフ・カギル・タダス・ヒロシ・ミチノリ・イタル・シヅカナリ・ヲノノク・イム・イモヒ・カザルナリ・オロソカナリ・モタリ・マグ・ナル・タダシ 〔立〕齊 カギル・イツクシ・ヒロシ・ヲノノク・ワタスキ・シヅカナリ・ヒトシ・イム・ミチ・タダス・ノリ・トキ・イモヰ・トシ

[部首]
〔説文〕七上に「は等しきなり」の一字を属するが、と立意の同じ字で、一家の婦人が、その家に奉仕するときの姿をいう。

[声系]
〔説文〕に齊声として齋・・躋・・齎・儕・・濟(済)・霽・擠・など十七字を収める。斉女・斉鼎の意をとるもの以外に、声のみをとるものも多い。

[語系]
齊dzyei、齋tzhieiは声近く、斉敬・斉荘を以て斎(いつ)く意である。劑(剤)dzyeiは齊と同声。方鼎に刻文を加える意で、その盟誓・契約の辞を約剤という。徇ziuen、捷dziapも声の通ずるところがあり、それで疾・徇・捷、すなわち捷疾・敏捷の意がある。敏・捷も婦人が髪飾りをつけ、祭事に奔走することをいう語である。

[熟語]
斉戒・斉牛・斉潔・斉事・斉舎・斉酒・斉宿・斉如・斉酎・斉服・斉祓・斉明・斉沐・斉慄・斉力・斉衰・斉盛・斉・斉一・斉壱・斉家・斉娥・斉諧・斉喊・斉歓・斉・斉軌・斉給・斉・斉均・斉駆・斉愚・斉敬・斉契・斉限・斉厳・斉口・斉衡・斉死・斉歯・斉疾・斉車・斉首・斉粛・斉捷・斉唱・斉心・斉聖・斉整・斉正・斉声・斉斉・斉全・斉楚・斉荘・斉東・斉等・斉同・斉年・斉眉・斉備・斉・斉物・斉民・斉名・斉盟・斉量・斉列・斉和
[下接語]
一斉・飲斉・雲斉・叡斉・火斉・均斉・敬斉・斉・五斉・羹斉・粛斉・斉・上斉・正斉・整斉・天斉・徳斉・不斉・平斉・明斉・六斉・和斉

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百科事典マイペディア 「斉」の意味・わかりやすい解説

斉【せい】

(1)中国,周代の侯国。現在の山東省にあり,臨【し】(りんし)に都した。前11世紀末,太公望呂尚(りょしょう)が封ぜられたのに始まるという。姓は姜(きょう)氏。春秋時代の前679年,第15代桓公(かんこう)は初めて覇者となった。のち内乱が続き,戦国時代に入って前386年田(でん)氏が国を奪った(田斉)。威王・宣王のとき,国勢は絶頂に達したが,前3世紀からは衰える。前221年に滅ぼされた。→春秋戦国時代(2)中国,南朝(南北朝)の一つ。南斉とも。479年武将の蕭道成(しょうどうせい)(のちの高帝)がの国を奪って帝位についた。次の武帝は内政の充実をはかり永明の治といわれたが,以後は内乱が続き,502年一族の蕭衍(しょうえん)(の武帝)に国を奪われた。(3)中国,北朝(南北朝)の一つ。北斉とも。550年東魏()の帝位を権臣の高歓が奪って建国。西方の北周()と対立したが,北周により577年滅ぼされた。
→関連項目楽毅管仲魏晋南北朝時代戦国の七雄孫子武王六朝文化臨【し】古城址

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改訂新版 世界大百科事典 「斉」の意味・わかりやすい解説

斉 (せい)

中国の王朝。550-577年。北斉,高斉ともいう。東魏の実力者高歓の死後,その地位を引き継いだその子の高澄は政権奪取を計画していたが,不慮の死をとげた。弟の高洋は革命を敢行して斉を建て(文宣帝),引き続き鄴(ぎよう)を首都としたが,高氏の軍事根拠地である太原もその重要性を失わなかった。文宣帝は酒乱の暴君で,漢人貴族楊愔(よういん)らを股肱として一族,功臣をしきりに誅殺した。帝の死後その不満が爆発して宗室の諸王が楊愔らを殺し,その中心人物常山王演が功臣たちの支持によって即位した(孝昭帝)。孝昭帝は質実なやり方で政治を引きしめたが,1年余りで病死した。第3代湛(武成帝)の時代には,寵臣たちが政治を乱脈に陥れ,功臣や名臣たちを排斥した。こうして軍や官僚機構は機能麻痺に陥り,これに乗じた北は577年,まず太原を陥れ,ついで鄴に進撃して第4代緯(後主)を捕らえ,ここに運命が決した。北斉は政情不安定のために滅んだが,すぐれた文人官僚を擁し,隋・唐律令に大きな影響を与えた河清三年律令の制定,《太平御覧》の原本となった《修文殿御覧》の編纂など,文化上の功績は大きい。
魏晋南北朝時代
執筆者:


斉 (せい)

中国,南朝4王朝の一つ。479-502年。北朝の斉を北斉と呼ぶのに対して南斉と呼ぶ。晋陵武進(江蘇省常州)に僑置された南蘭陵蘭陵の人,蕭道成(しようどうせい)(高帝)が創業。対北魏防衛の拠点である淮陰(わいいん)(江蘇省淮陰)の軍閥として実力を蓄え,中央に召されて軍政を担当,江州刺史桂陽王劉休範,荆州刺史沈攸之(しんゆうし)などの挙兵を平定して宋から王朝を譲られた。高帝と武帝の2代は開国の功臣や貴族の支持によって比較的安泰であったが,北魏との交戦によって疲弊し,また社会的には社会の底辺の寒人層の台頭が目だった。485年(永明3)に浙江地帯に起こった唐㝢之(とううし)の乱は,戸籍の書きかえによって士人身分の獲得をめざした庶民の反乱である。明帝は諸王をつぎつぎに殺害する恐怖政治をしいて王室の結束を弱めたが,悪童天子として世に聞こえる東昏侯の時代には地方州鎮の挙兵があいつぎ,結局23年の短命をもって蕭衍(しようえん)(梁の武帝)に王朝を奪われた。
魏晋南北朝時代
執筆者:


斉 (せい)

中国,戦国七雄の一つ。前386-前221年。姜(きよう)姓の斉と区別して田斉ともよぶ。前672年,陳の貴族田完が斉(姜姓)に亡命し,桓公に仕えて大夫となり,勢力を得た。のち斉の正卿の国氏,高氏を追放して国政を掌握し,前386年斉の康公を幽閉して国を奪い,周王より諸侯として承認された。威王,宣王のとき強盛となり,都の臨淄(りんし)(山東臨淄県)は最大の都市として繁栄,多数の学者も集まった(稷門(しよくもん))。前284年燕など5国に攻められて衰え,前221年秦に滅ぼされた。
春秋戦国時代
執筆者:


斉 (せい)

中国,春秋時代の姜(きよう)姓の侯国。?-前379年。戦国の田斉と区別して姜斉ともいう。前11世紀末,周建国の功臣太公望呂尚が営丘(山東益都県か?)に封ぜられたのにはじまる。のち現山東臨淄(りんし)県にうつる。春秋時代には疆域を拡大,第15代桓公は北の山戎や狄(てき)を撃ち,北上する楚を抑え,周王室をたすけ,最初の覇者となる。その死後,晋におされたが,山東を支配,晋・楚に対抗する大国であった。のち陳から亡命した田氏が大夫として力を得,前386年康公を幽閉して国を奪う。前379年康公が死んで滅んだ。
春秋戦国時代
執筆者:


斉(金の傀儡政権) (せい)

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「斉」の解説

斉(せい)
Qi

①〔戦国〕前386~前221 戦国の七雄の一つ。山東地方を領有。周初以来の斉を,その臣の田氏(でんし)が奪って建国。前4世紀後半威王,宣王のとき国勢は絶頂に達し,国都臨淄(りんし)は繁栄をきわめた。前284年に大敗して以後国力が傾き,趙(ちょう)に圧迫され,秦に滅ぼされた。斉は山東の漁塩の利を占め,商業活動が盛んで,刀銭が流通した。

②〔南朝〕479~502 魏晋南北朝時代の南朝の王朝。の武人蕭道成(しょうどうせい)(高帝)が順帝の禅譲を得て建てた王朝。その子の武帝(賾(さく))は民政に努め,永明(えいめい)の治といわれたが,諸帝は寒人(かんじん)を用いて貴族の支持を失い,一族の蕭衍(しょうえん)(梁(りょう)の武帝)に国を奪われ,7代で滅んだ。北朝の斉(北斉)に対し,南斉という。

③〔北朝〕北斉

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「斉」の意味・わかりやすい解説


せい
Qi; C`hi

中国の諸侯国の一つ。 (1) 周代の侯国の一つ (前 11世紀~前 379) 姜姓。周初の功臣太公望呂尚 (りょしょう) が封建されてできたと伝えられ,都は臨 淄 (りんし。山東省臨 淄) 。春秋時代前期に桓公が管仲を用いて富国強兵策を行い,五覇の第1となった。その後は隣国の魯と対立を続けたが,簡公4 (前 481) 年家臣の田氏が簡公を殺して専権ふるい,康公 15年 (前 386) 年田和 (でんか) が康公を追放して斉侯となり,姜姓の斉は滅亡した。 (2) 戦国時代の七雄の一つ (前 386~221) 。姓は田氏。田氏は陳氏とも呼ばれ,元来陳国の王族であったが,逃れて斉の桓公に仕え,次第に民心を収攬して他の貴族を圧倒し,康公 15年主君の位を奪い,諸侯となった。戦国時代中期威王,宣王の頃は政治,文化の一中心をなした (稷下の学) が,王健 44 (前 221) 年秦の始皇帝に滅ぼされた。


せい

劉予」のページをご覧ください。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「斉」の意味・わかりやすい解説

斉(中国、戦国時代の国)
せい

中国、戦国時代の国。春秋時代までの斉国を姜(きょう)斉ともよぶのに対し、紀元前379年田敬仲(でんけいちゅう)が公位について以後、代々田氏一族が公(王)位につくようになった戦国時代の斉国を田斉(でんせい)とよんで区別する。前4世紀中期、田斉4代目の威(い)王から王を称するようになり、現在の山東省全域を支配する強国に成長し、戦国七雄の一つに数えられる。その子宣(せん)王の時代に勢力は絶頂に達し、学問のうえでも全国の諸家の学者を臨淄(りんし)の稷門(しょくもん)の下の学館に集めて政治論議をさせ、いわゆる「稷下の学」をおこした。次の湣(びん)王の時代には宋(そう)、中山(ちゅうざん)などを滅ぼして勢力を維持したが、前284年に、北方の燕(えん)が将軍楽毅(がくき)統率のもとで他の4国(秦(しん)・魏(ぎ)・韓(かん)・趙(ちょう))と結んで斉を大敗させて一時臨淄をも占領した。以後、勢力は下り坂となり、西方の秦、北方の趙に圧迫され続け、前221年、秦の東伐軍に滅ぼされた。

[太田幸男]

『司馬遷著、小川環樹他訳『史記世家』(岩波文庫)』


斉(中国、周代の侯国)
せい

中国、周代の侯国。姜(きょう)斉ともいう。周の文王に用いられて、武王の殷(いん)の討滅を助けた太公望(たいこうぼう)呂尚(りょしょう)が営丘(えいきゅう)(現在の山東省益都(えきと)県付近)に封ぜられたのに始まるとされる。7代目献公(けんこう)のときから都を臨淄(りんし)(現在の山東省淄博(しはく)市東方)に移し、以後都は変わらなかった。紀元前7世紀初頭ごろから勢力を伸ばし、桓公(かんこう)(在位前685~前643)が即位すると、名宰相管仲(かんちゅう)の補佐の下で富国強兵策を推進し、前651年には覇者となり、周辺の小国を併合し、衛(えい)国を復興させ、楚(そ)の侵入を阻止し、斉を一躍強国にした。桓公以後は覇者とはならなかったが、晋(しん)、楚と並ぶ大国として君臨した。しかし、前5世紀以後は有力貴族の台頭や内乱によって国内は混乱し、前379年、有力貴族の田敬仲(でんけいちゅう)が康公(こうこう)にかわって公位についた。

[太田幸男]

『司馬遷著、小川環樹他訳『史記世家』(岩波文庫)』


斉(中国の王朝(479~502))
せい

中国の王朝(479~502)。南朝の一つ。南斉ともいう。都は建康(いまの南京(ナンキン))。蘭陵(らんりょう)(江蘇(こうそ)省武進県付近)出身の蕭道成(しょうどうせい)(高帝)が宋(そう)王朝にかわって建国した王朝である。7代24年間続いたが、11年在位した第2代武帝のほか、初代高帝の3年、第5代明(めい)帝の4年を除けば、ほかはいずれも若年の皇帝が短期間に廃立されている。もっとも安定していたのは武帝時代で、貴族にかえて身分の低い官僚を重用し、また混乱していた戸籍を正すなどの政策がみられ、比較的専制的な政治が行われた。その後、傍系から帝位を継いだ明帝が帝室の一族を大量に殺害し、また彼の子東昏侯(とうこんこう)の南朝随一といわれる虐政によって人心を失い、一族の蕭衍(しょうえん)(梁(りょう)の武帝)によって滅ぼされた。

[中村圭爾]


斉(中国、金国の傀儡国家)
せい

中国、淮河(わいが)の流域を中心に、漢人の劉予(りゅうよ)を皇帝として金国の後援で建てられた傀儡(かいらい)国家(1130~37)。1126年に宋(そう)の都、開封が陥落したあと、ただちに金人の手によって漢人の張邦昌(ちょうほうしょう)を盟主に建てられた楚(そ)国は1年足らずで瓦解(がかい)した。その後、さらに綿密な計算のもとに、金国はその占領地域の安定的確保の前提としてこの間接統治の政策を進めた。このことは当時の南宋の士人や武将たちにも少なからぬ動揺をもたらした。1133年以降は金、宋(南宋)両者の勢力は淮河の線で事実上均衡し、劉予の政策にも意外な不安定要因がみえてきたことからついに廃止された。その地は金国の直接統治となり、そのことは1142年の和議で南宋からも認知された。

[山内正博]


斉(北斉)
せい

北斉

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旺文社世界史事典 三訂版 「斉」の解説


せい

①周代の諸侯国の一国
②南北朝時代の南朝の一国 479〜502
③南北朝時代の北朝の一国 550〜577
④南宋の初めに金が宋の降将劉予 (りゆうよ) を擁立して建てた国 1130〜37
太公望呂尚 (たいこうぼうりよしよう) が山東省臨淄 (りんし) に封じられたのに始まる。前7世紀,桓公は管仲 (かんちゆう) を重用して国勢を伸張し,春秋最初の覇者(春秋の五覇 (ごは) )となって,山東の大半を領有した。のち内乱により,前386年政権は家臣の田 (でん) 氏に帰した(これ以前を姜斉 (きようせい) ,以後を田斉と呼ぶ)。戦国の七雄の1つに数えられ,前4世紀末,都の臨淄は栄え,諸子百家の士が集まって戦国時代の文化の中心となった。前221年秦に滅ぼされた。
南斉ともいう。
北斉ともいう。 ➡ 北斉
山東・河南・陝西の地を領有。その他,唐末の黄巣 (こうそう) も斉国皇帝を自称した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「斉」の解説


せい

中国の南北朝時代の王朝の一つ(479~502)。北朝の北斉に対して南斉ともいう。蕭道成(しょうどうせい)(高帝)が宋の順帝の禅譲をうけ,王朝を開いた。しかし内政は振るわず内紛が続き,和帝が梁王の蕭衍(しょうえん)に禅譲して王朝は滅んだ。外交では479年にはじめて加羅(から)王の朝貢使をうけ,倭王の武を鎮東大将軍に叙し,百済(くだら)と倭を軸に北朝と高句麗に対抗した。

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世界大百科事典(旧版)内のの言及

【劉予】より

…中国,金の傀儡(かいらい)政権斉国の皇帝。在位1130‐37年。…

【山東[省]】より

…このように,地勢や気候からみて,山東は華北平原のなかで最も安定した自然条件をもつ地域であるといえよう。
【斉魯文化】

[大汶口文化と竜山文化]
 新石器時代,黄河中下流域には多様な文明が形成されたが,山東では約5000年前,大汶口(だいぶんこう)文化(泰安県大汶口遺跡を代表遺跡とする)と呼ばれる進んだ文化が,ほぼ山東全域に広がっていた。この文化は,同時期に西の中原地方にみられる仰韶文化とはやや性格を異にし,むしろ江南地方から淮河(わいが)下流域にみられる青蓮崗文化と共通するところが多く,山東より沿海に長江(揚子江)下流域まで続く,一連の文化が形成されていたと考えられる。…

【春秋戦国時代】より

…前半の大半の期間のことが魯国の年代記《春秋》に,後半のことが《戦国策》とよぶ書物に書かれているからである。前453年で二分するのは,春秋の大国晋の家臣であった韓・魏・趙の3代が主家を三分独立し,晋は事実上滅亡し,以後戦国の七雄といわれる韓・魏・趙・楚・斉・燕・秦の対立抗争の時代となるからである。
[歴史]
 《史記》によれば,春秋初めには140余の小国が分立していたが,勢力のあったのは,魯(山東省曲阜),斉(山東省臨淄(りんし)),曹(山東省定陶),衛(河南省淇県,のち滑県),鄭(河南省新鄭),宋(河南省商丘),陳(河南省淮陽(わいよう)),蔡(河南省上蔡,のち新蔡,さらに安徽省鳳台),晋(山西省曲沃),秦(陝西省鳳翔,のち咸陽),楚(湖北省江陵,のち河南省淮陽,安徽省寿県),燕(北京市)の十二諸侯であり,洛陽には周王室があった。…

【度量衡】より

… 春秋時代には生産力が増大し,土地私有が現れるようになると,各諸侯の国々では田賦をはじめとする賦税の徴収など,封建生産関係のなかで度量衡の整備が進んだ。春秋斉の国の右伯君銅権,楚の国の銅環権などの分銅が考古学的な証拠である。《左伝》の昭公3年(前539)の記事には,量目の升,豆(4升),区(4豆),釜(4区),鐘(10釜)が見え,陳氏が台頭した前5世紀の斉の国では四進法の容量が普及した。…

【魏晋南北朝時代】より

…220年漢帝国が滅亡してから589年隋によって中国が再び統一されるまでの時代。建康(南京)に首都を置いた呉・東晋・宋・斉・梁・陳の江南6王朝を六朝というが,六朝の語でこの時代を総称する場合もある。この時代の特徴は政治権力の多元化にあり,短命な王朝が各地に興亡して複雑な政局を織りなし,はなはだしい場合には十指に余る政権が併立した(図)。…

【南朝】より

…中国,東晋王朝を継いで江南に興亡した4王朝,すなわち(420‐479),(479‐502),(502‐557),(557‐589)の総称。北朝に対する呼名。…

※「斉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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