興津八幡宮(読み)おきつはちまんぐう

日本歴史地名大系 「興津八幡宮」の解説

興津八幡宮
おきつはちまんぐう

[現在地名]窪川町興津

馬場屋敷ばばやしき鎮座前方小室おむろの浜を望む。祭神は応神天皇・田心姫神・湍津姫神・市杵島姫神・神功皇后武内宿禰。旧郷社。社伝によれば元慶二年(八七八)勧請という。古来与津よつ村・与津浦の総鎮守。一条氏の崇敬があつく、一条房家は明応年中(一四九二―一五〇一)に神鏡三〇面、陣刀二腰、社領一町八反などを寄付、大祭にはなか(現中村市)から神役一五〇人、的馬三頭を遣わしたという(「八幡宮由来記」社蔵)。長宗我部氏時代には社領一町二反余があった(仁井田之郷地検帳)。安永七年(一七七八)の「西浦廻見日記」に

<資料は省略されています>

みえ、神社は宝永四年(一七〇七)の大津波で流れたため現在地に移り、宝物・棟札なども流失したようである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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