舘村(読み)たちむら

日本歴史地名大系 「舘村」の解説

舘村
たちむら

[現在地名]朝地町池田いけだ たち

瀬口せぐち村の東、市万田いちまんだ川北岸にある。村名は大友氏支族の一万田氏居館があったことにちなむと推定され、現在なお御屋敷おやしきと称されている場所には土塁が残る(朝地町史)正保郷帳に村名がみえ、田高六六石余・畑高一六五石余、一万田いちまんだ郷に属した。旧高旧領取調帳では高二二四石余。安永七年(一七七八)には市万田組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。明治八年(一八七五)瀬口村など三ヵ村と合併、池田村となる。谷の窪たにのくぼ墓地にある石幢は総高二二二センチ。二重の基礎の上に八角の幢身が立ち、一部損傷した中台、八角の龕部、笠・宝珠からなる。


舘村
たてむら

[現在地名]北会津村三伏みふし

西は宮下みやのした村、北は出尻いでずり村に接する。昔大きな館があって、その跡に集落が立地したといわれ、集落のあるところの字をたてうちという。周囲は湿田で中世以前の河跡かと思われ、「舘のひどろ田のからばのかれ、またがなければ首までも」とうたわれていた(北会津村誌)。「会津鑑」には「館東西三十間南北二十一間号田村山ノ舘 田村山刑部頼久ノ子同少輔義純築」とある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高一二五石余。寛文五年(一六六五)の「万改帳大沼郡中荒井組」では本田高一五一石余・新田高四石余、免六ツ四分一厘余、家数一七・竈二三、男五五・女四七、馬九。


舘村
たちむら

[現在地名]福光町太美ふとみ

田屋たや村の南、小矢部おやべ川東岸の段丘上にある。村名は太美郷の領主で寿永二年(一一八三)礪波山の戦いで木曾義仲に属し討死した太見太郎光能の館があったことに由来するという(福光町史)。元和五年(一六一九)の家高新帳に「たち村」とみえ、左次兵衛組に属し、役家数四。正保郷帳では舘村で、高六二石余、田方三町八反余・畑方三反。明暦二年(一六五六)の村御印留では田中舘たなかたち村とあり、寛文一〇年(一六七〇)の村御印でも同村名で草高七六石、免四ツ八歩、小物成は山役一三匁・蝋役三匁。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android