舟木村
ふなきむら
[現在地名]楠町大字船木の一部
有帆川の流域で、山陽道の宿市である舟木市の北にある。東は東万倉、北は西万倉、南西は逢坂の各村に接する。萩藩の蔵入村で舟木宰判に属する。
康応元年(一三八九)の「鹿苑院西国下向記」に、神功皇后朝鮮出兵伝説を語るなかに「長門国船木郷にて杣を執て」とみえる。また文明一二年(一四八〇)九月、この地を通った連歌師宗祇は「筑紫道記」に船木の様子を記している。
弘治三年(一五五七)一〇月六日付祇園文書(「寺社証文」所収)に「長州厚東郡船木郷内千崎村五石足同社御供料所同人執沙汰之、坪付別紙在之」とみえる。この千崎村現小野田市大字千崎の辺りと考えられるので、船木郷は現大字船木より広い範囲をさしていたことがわかる。また永禄九年(一五六六)閏八月七日付と同一二年閏五月二四日付の同文書にも同様に記されている。
舟木村
ふなぎむら
[現在地名]北淡町舟木小倉
上山村南西の北西へ傾斜する山間にあり、北西は蟇浦村、北西部を野島川支流折ヶ谷川が北流する。正保国絵図に村名がみえ、高四八石余。天保郷帳では高六九石余。反別戸数取調書によると反別一一町八反余、高一二九石余で、うち一〇〇石余を筆頭家老稲田九郎兵衛が知行、一四石余が蔵入地。家数二八・人数一一二。文化七年(一八一〇)の棟附人数改帳(舟木町内会所有文書)によれば家数三三、全戸が稲田九郎兵衛の頭入百姓である。近世後期には佐野組に属し、幕末には上山村庄屋広田善次兵衛が当村庄屋役を兼務した(反別戸数取調書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 