舟生村(読み)ふにゆうむら

日本歴史地名大系 「舟生村」の解説

舟生村
ふにゆうむら

[現在地名]山方町舟生

久慈川西岸の河岸段丘上にある。南と西と北に山が迫り、小瀬おぜ川・舟生川が東に流れて久慈川に合流。東は西野内にしのうち村。保内ほない(現久慈郡大子町)より水戸城下へ通ずる南郷なんごう街道に沿う街村。舟生村には舟生川から小瀬への上り坂四七六間があり、ヘグリ坂という交通の難所であった。

「新編常陸国誌」の舟生村の項には「正保以後、山方村ヨリ分レテ一村トナル」とあり、元禄郷帳に「舟生村」とみえる。「水府志料」によると村の東西三六町四〇間・南北二九町四〇間、戸数およそ九一、水戸まで八里余とある。


舟生村
ふにゆうむら

[現在地名]梁川町舟生

八幡やわた村の北、阿武隈川右岸に位置。船生とも記す。大越おおごえ対岸五十沢いさざわ村に徒歩渡しをした所といい、その下流栗生くりゆうにはかぶとの渡・九滝明神があり、ここで小鵜飼船の荷の積替えがなされたとも伝える。延宝三年(一六七五)山舟生やまふにゆう村を分村し(富野村郷土誌)、以後しばらくは沖舟生おきふにゆう村とよばれたという。元弘三年(一三三三)八月日の伊達貞綱安堵申状(南禅寺文書)に「船生郷」とみえ、伊達貞綱は同年三月からの合戦の恩賞として同郷のうちの田在家などの安堵を申請し、九月八日に陸奥守北畠顕家から認められている。しかし、暦応二年(一三三九)から貞和三年(一三四七)の間とみられる一〇月二五日の伊達行朝書状(同文書)によれば、修理亮七郎ためかずの娘が「ふねをの郷」のうち左近太郎入道跡の田在家と同脇在家などを相伝したとして、受取を伊達氏惣領行朝に要求したが、行朝は不審があるとして貞綱に確認のため尋ねている。


舟生村
ふにゆうむら

[現在地名]関城町舟生

東は犬塚いぬつか村・板橋いたばし村、西は関本せきもと村。戦国時代は多賀谷・結城両氏の勢力の接触点にあり、天正一八年(一五九〇)から慶長七年(一六〇二)までは多賀谷氏領、同氏出羽転出以降は天領になったと思われる。元禄郷帳の村高は二三二石余であったが、正徳二年(一七一二)二月の常陸国西河内郡舟生村田畑屋敷石高集并除帳(市村家文書)によると、田畑屋敷五四町七反七畝二九歩・四一三石余、新田畑屋敷二四町九反八畝余・一〇〇石余で村高は都合五一三石余となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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