下小川村(読み)しもおがわむら

日本歴史地名大系 「下小川村」の解説

下小川村
しもおがわむら

[現在地名]安曇川町下小川

かも川河口両岸に位置し、東は横江浜よこえはま村、西は上小川村、鴨村(現高島町)。元応元年(一三一九)の「日吉社領注進記」に小川保がみえる。元亨四年(一三二四)一一月二六日の快円進上状(葛川明王院史料)に「広瀬小川庄」とあり、葛川明王かつらがわみようおう(現大津市)に一石を納入している。またこの年八月に二度の大洪水があったことが記される。年未詳六月九日の飯尾清房書状(朽木文書)によれば「小川保内宝幢跡事」は飯尾弥六兵衛尉の知行分であったが、代官船木式部丞が入部しようとして害されている。天正一一年(一五八三)八月の杉原家次知行目録(浅野家文書)に下小川とあり、高一千一五〇石。寛永石高帳に村名がみえ高一千六六五石余で、大溝藩領一千二七石余・山城淀藩領六三八石余。


下小川村
しもおがわむら

[現在地名]いわき市小川町おがわまち下小川しもおがわ

南流する夏井なつい川中流左岸にあり、南は上平窪かみひらくぼ村、北は関場せきば村、対岸は西小川村・赤井あかい村。文安三年(一四四六)六月八日の小河浄宗寄進状(長福寺縁起)によれば、「岩城之郡小河村之内下小河にしさくの田」が長福ちようふく寺本尊である地蔵に寄進されている。もとは現在の小川町全域を含んだ小川村のうちと思われ、延元二年(一三三七)八月二六日の相馬胤平軍忠状(相馬文書)によれば、同年五月頃「凶徒小河松山誅戮」するため、軍勢を差向けるよう命ぜられている。その後小川村のうちは長福寺の所領として史料に度々みえる。貞和四年(一三四八)一〇月八日の小河義雄寄進状(長福寺縁起)に「いわきのこほりにし小川村内」、応安七年(一三七四)一〇月一八日のれうき寄進状(同縁起)に「おかハのむらのちやうふくし」などとみえる。


下小川村
しもおがわむら

[現在地名]小見川町下小川・入会地いりあいち

本郷ほんごう村の南西に位置し、黒部くろべ川を挟んで北小川・南小川の集落がある。古くは小川村と称した(元禄郷帳)。寛永二年(一六二五)知行宛行状に小川村とみえ、高三三五石余が旗本坂部領。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高四九七石余で旗本須田・小野・近藤・兼松・青木・松平領と小見川村正福しようふく寺領。享保(一七一六―三六)頃は幕府領二三九石余のほか旗本松平領二一石余・青木領一三石余・近藤領六三石余・小野領五三石余(「小見川領内諸事覚書」木内神社文書)


下小川村
しもおがわむら

[現在地名]瀬高町太神おおが

大江おおえ村の南西にあり、南は海津かいづ(現高田町)。村名は中世の小河おがわ庄に由来するという。天文一九年(一五五〇)菊池義武に与同し没落した三池親員の所領で、田尻氏が恩賞として大友氏へ要求した知行地のうちに、上小川・下小川二四町がみえる(年月日欠「三池氏等知行坪付」田尻家文書/佐賀県史料集成七)。天正七年(一五七九)田尻鑑種は龍造寺氏から下小河の地を安堵されている(三月二七日「鍋島信昌書状」同上)


下小川村
しもおがわむら

[現在地名]大子町盛金もりがね、那珂郡山方やまがた町盛金

久慈川が村内を北から南へ流れ、その東西の山間にある村。北は大沢おおさわ村・栃原とちばら村・西金さいがね村。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「下小川村」とみえ、同二一年の御知行割郷帳によると中山市正の給地で、大半が畠地で田は四九石余。「新編常陸国誌」によると天保一三年(一八四二)村名を盛金と改め、検地の結果田畠七二町余、分米五〇四石余であった。

天保二年の藤田東湖の「巡村日録」(水戸藤田家旧蔵書類)に「下小川村にて当春已来役人共葛根を掘候へは小民共も夫々掘候て夫食を補ひ四月下旬麦百俵も食のびたるべしと云是迄難渋人ならては葛をは掘ざるゆへ人々に恥たる処役人より初め候ゆへ人々掘候と云」とみえる。


下小川村
しもおがわむら

[現在地名]山方町盛金もりがね久慈郡大子だいご町盛金

下小川村(久慈郡)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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