日本の城がわかる事典 「船上城」の解説 ふなげじょう【船上城】 兵庫県明石市船上町にあった平城(ひらじろ)(水城)。安土桃山時代にキリシタン大名高山右近(たかやまうこん)が居城。室町時代に播磨の豪族赤松氏が砦を築き、その後三木城主の別所長治(べっしょながはる)の叔父別所吉親(よしちか)、大屋肥後守が居城した(林ノ城)。三木合戦の後は蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)(小六(ころく))に与えられるなどしたが、1585年(天正13)、「天正の国替え」により6万石で明石に入封した高山右近が入城した。船上城は明石海峡の要衝に位置し大坂城を守る要であったため、大規模な修築を行い、翌年には城と城下町をほぼ完成させた(林ノ城をもとに改修したという説と、新しい城を築城したという2説がある)。キリシタン追放令により、1587年(天正15)キリシタン大名だった右近は領地を没収され、追放、その後、豊臣秀吉の直轄領となり何人かの城番が置かれたという。関ヶ原の戦いの後、池田輝政(てるまさ)が播磨国に移封となり、輝政の子池田利政(としまさ)が城主となった。1617年(元和3)には小笠原忠真(ただざね)が入城したが、忠真は1619年(元和5)に徳川秀忠の命で明石城を築城したため、船上城は廃城となった。現在、住宅地に囲まれた田圃の中に船上城の本丸跡とされる5m四方の狭い台地があり、城址説明の案内板と古城稲荷社の祠が祀ってある。近年の発掘調査で、本丸跡周辺に武家屋敷があったことが裏付けられた。明石城外堀沿いにある織田家長屋門は船上城の長屋門を移築した唯一の遺構といわれる。山陽電気鉄道本線西新町駅から徒歩10分。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報