高山右近(読み)タカヤマウコン

デジタル大辞泉 「高山右近」の意味・読み・例文・類語

たかやま‐うこん【高山右近】

[1552~1615]安土桃山時代キリシタン大名。名は長房。洗礼名、ジュスト。摂津の高槻城主、のち、明石城主。江戸幕府禁教令によってマニラに追放後、病没。利休門下七哲の一人。

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共同通信ニュース用語解説 「高山右近」の解説

高山右近

高山右近たかやま・うこん 1552年、現在の大阪府豊能町で生まれ、子どもの頃、洗礼を受けたキリシタン大名。高槻城主時代には領民の7割がキリスト教徒になったとされ、豊臣秀吉とよとみ・ひでよしの軍師・黒田官兵衛くろだ・かんべえも右近の影響でキリシタン大名になったといわれる。秀吉のバテレン追放令に従わず大名の地位を失った。小豆島や金沢などで過ごした後、1614年に江戸幕府の禁教令で国外追放となりフィリピン・マニラに渡ったが、到着後まもなく熱病で死去した。茶人としても知られ、千利休の高弟「利休七哲」の一人に数えられる。

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精選版 日本国語大辞典 「高山右近」の意味・読み・例文・類語

たかやま‐うこん【高山右近】

  1. 安土桃山時代の武将。キリシタン大名。名は長房、重友、友祥(ともなが)。右近は呼び名。洗礼名ジュスト。織田信長豊臣秀吉の臣として戦功があり、高槻・明石に封じられた。禁教後マニラに追放され客死。茶人としてもすぐれ、利休門下七哲の一人。天文二一~元和元年(一五五二‐一六一五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「高山右近」の意味・わかりやすい解説

高山右近
たかやまうこん
(1552?―1615)

安土(あづち)桃山時代の武将、キリシタン大名。大和(やまと)国(奈良県)沢城主高山飛騨守(ひだのかみ)図書(ずしょ)(?―1596)の長子。摂津(大阪府)高山に生まれる。幼名彦五郎。友祥(ともなが)、長房と称し、右近允(うこんのじょう)を名のる。飛騨守は初めキリシタン宗の撲滅を図ったが、かえって入信。右近も1564年(永禄7)受洗。霊名(れいめい)ジュスト。1568年和田惟政(わだこれまさ)(1530―1571)に従い摂津国高槻(たかつき)を預ったが、1571年(元亀2)荒木村重(あらきむらしげ)が和田氏を討ち、1573年(天正1)右近は村重の下に高槻城主となった。1578年村重が織田信長に叛(はん)した際、右近は和平工作を進めたが、信長はパードレ(伴天連(バテレン))らを軟禁、右近に帰順を迫った。質を荒木氏に送っていた彼はキリシタン教会の危機を救うため、出家の決意で信長のもとに赴いたが、かえって高槻領を安堵(あんど)され、教会も平穏を保つことができた。本能寺の変には山崎合戦に先陣。その後、豊臣秀吉(とよとみひでよし)に従い各地に転戦、武功をたて、1585年明石(あかし)6万石に封ぜられた。その間、高槻はじめ安土、京都、大坂などの教会を援助。領内にセミナリオ(神学校)や慈善事業をおこすなど、キリシタンの指導的人物として仰がれた。小西行長(こにしゆきなが)、黒田孝高(くろだよしたか)父子などキリシタン大名の過半は、直接間接彼が信仰に導いたものである。

 1587年7月、伴天連追放令に伴い、キリシタンの代表的人物として除封されたが、行長ついで前田利家(まえだとしいえ)の保護を受け、加賀藩の客老となり藩政にも参与、また金沢城修築、高岡城築造にあたった。千利休(せんのりきゅう)門下の茶人としても知られ、南坊(みなみのぼう)、等伯(とうはく)と号した。1614年(慶長19)幕府の禁教発令に伴いマニラに追放されたが、40日ほどで熱病に冒され、1615年2月3日(慶長20年正月6日)殉教の死を遂げた。マニラは市をあげて信仰の勇者をたたえ、9日間にわたり盛大なミサを執行した。

[海老沢有道 2018年3月19日]

『海老沢有道著『高山右近』(1958/新装版・1989・吉川弘文館)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高山右近」の意味・わかりやすい解説

高山右近
たかやまうこん

[生]天文21(1552).摂津
[没]慶長20(1615).マニラ
戦国時代の武将,キリシタン大名。名は重友,長房または友祥。高山友照の嫡男に生まれ,永禄7(1564)年に受洗し,洗礼名をジュスト(あるいはユスト)Justoとした。天正1(1573)年,高槻城主となり,天正4(1576)年の京都の南蛮寺建造に尽力する。荒木村重の臣として織田信長に抗したが,イエズス会宣教師グネッキ=ソルディ・オルガンチノの勧めで降伏し,信長の部将となった。本能寺の変後は豊臣秀吉に協力,山崎の戦いで功を立て明石に封じられた。天正15(1587)年のバテレン追放令のとき,信仰を理由に除封,追放された。その後,前田利家に招かれ 3万石を与えられた。前田家のもとで,秀吉による小田原城の北条氏攻めや,関ヶ原の戦いに加わり,金沢城や高岡城の築城にも携わった。慶長19(1614)年,江戸幕府の禁教令に触れて国外追放となり,マニラに流され,到着後ほどなく没した(→キリスト教禁制)。生前,千利休に師事し,茶人南坊(みなみのぼう),等伯(とうはく)としても名高い。2016年1月21日,バチカンの教皇庁より福者に認定された。

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朝日日本歴史人物事典 「高山右近」の解説

高山右近

没年:慶長20.1.8(1615.2.5)
生年:天文21(1552)
L.フロイスが「キリシタンの柱石」,『駿府記』も「伴天連の大檀那」と記す,安土桃山・江戸前期の代表的キリシタン大名。ヨーロッパの教会にも知られた国際人。高山飛騨守図書の嫡男,永禄7(1564)年,ロレンソから受洗,霊名ジュスト。21歳のとき,摂津国(大阪)高槻城主となり織田信長に仕えた。領民を信仰に導き,宣教師を助けて教会に奉仕した。天正13(1585)年,豊臣秀吉により明石6万石に移封される。利休七哲のひとりで文武両道にすぐれ,右近の影響で蒲生氏郷,黒田孝高らが受洗,細川忠興,前田利家らは教会に好意をよせた。天正15年,秀吉は九州出兵の途次,突然伴天連追放令を発布,右近に棄教を迫ったが拒否,領地を没収された。のち前田利家が客将として金沢に招き,その嗣子利長も加判に列して重用した。右近の影響で重臣のキリシタンになるもの相次いだ。慶長19(1614)年江戸幕府のキリシタン禁教令でマニラ追放,病に倒れて没した。マニラ市民はその死を悼み,盛大な葬儀を営んだ。昭和52(1977)年マニラのディオラ広場にマニラ市と高槻市民らが浄財を集めて高山右近像を建立,平成4(1992)年日比友好の碑が取り付けられた。<参考文献>片岡弥吉『高山右近長房伝』,同『日本キリシタン殉教史』,J.ラウレス『高山右近の生涯』,同『高山右近の研究と史料』,海老沢有道『高山右近』

(片岡千鶴子)

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改訂新版 世界大百科事典 「高山右近」の意味・わかりやすい解説

高山右近 (たかやまうこん)
生没年:1552-1615(天文21-元和1)

キリシタン大名。茶人で利休七哲の一人。幼名を彦五郎,のち友祥(ともなが),長房。右近大夫。洗礼名ジュスト。南坊等伯とも称した。摂津高山に飛驒守の長男として生まれ,1564年(永禄7)に受洗した。73年(天正1)高槻城主となり,荒木村重に属したが,78年村重が織田信長に反すると信長に仕え,4万石を得た。82年山崎合戦では豊臣秀吉に属し,のち紀州根来(ねごろ)征伐,四国征伐に参加し,85年明石7万石を得た。この間,高槻,京都,安土などで教会堂の建設,領民の改宗に尽くし,小西行長,黒田孝高,蒲生氏郷など有力武将をキリスト教に導いた。87年秀吉の伴天連追放令発布のさい,信仰ゆえに除封され,加賀前田利家の下に身を寄せ,1万5000石を得た。1614年(慶長19)徳川家康のキリスト教禁令によってマニラに追放され,到着後わずか40日で没した。信仰一筋の生涯は信者の模範とされている。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「高山右近」の解説

高山右近
たかやまうこん

1552~1615.2.5

織豊期の武将。図書の長男。名は友祥(ともなが)・長房,通称は右近・右近允。利休七哲の1人で南坊等白の号があり,キリシタン大名として著名。洗礼名ジュスト。1573年(天正元)摂津国高槻城主となり,78年荒木村重の乱で織田信長にそむいたが,オルガンティーノの勧告で降り,高槻4万石を安堵。信長の死後は豊臣秀吉に仕え,85年播磨国明石城主6万石。87年6月のバテレン追放令で改易。その後小西行長や前田利家・同利長らの保護をうけ,小田原攻めや関ケ原の戦に参陣。1614年(慶長19)禁教令によりマニラへ追放。翌年同地で病没。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高山右近」の解説

高山右近 たかやま-うこん

1552-1615 織豊-江戸時代前期の武将。
天文(てんぶん)21年生まれ。高山図書の長男。はじめ摂津高槻城(大阪府)城主で織田信長につかえる。信長の死後,羽柴(豊臣)秀吉にしたがい播磨(はりま)(兵庫県)明石城主となった。キリシタン大名として知られたが,秀吉の禁教令にしたがわず改易,徳川家康の禁教令で追放され,慶長20年1月8日マニラで没した。64歳。名は長房,重友,友祥。通称は別に右近大夫。洗礼名はジュスト。
【格言など】禄は軽くとも苦しからず,耶蘇宗の一ヵ寺建立下さらば参るべし(前田利家へおくった書簡)

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百科事典マイペディア 「高山右近」の意味・わかりやすい解説

高山右近【たかやまうこん】

安土桃山時代の武将,茶人。キリシタン大名。本名長房,洗礼名ジュスト。初め摂津(せっつ)国高槻(たかつき)城主として織田信長に対抗したが,のち信長に従い,本能寺の変後は豊臣秀吉に属し明石城主となる。1614年キリシタン国外追放によりマニラで没す。
→関連項目高槻[市]

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旺文社日本史事典 三訂版 「高山右近」の解説

高山右近
たかやまうこん

1552〜1615
安土桃山〜江戸時代初期のキリシタン大名
1563年受洗し,洗礼名をジュストといった。'73年摂津(大阪府)高槻城主。荒木村重,織田信長,豊臣秀吉に仕え,'85年明石城主となった。'87年バテレン追放令後も信仰を守り改易され,前田利家に寄食,1614年江戸幕府の禁教令でマニラに追放され,同地で病死した。また千利休の高弟で,茶人としても著名。

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デジタル大辞泉プラス 「高山右近」の解説

高山右近

吉川英治著。戦国~江戸時代の武将、高山右近を主人公とした長編歴史小説。1949年刊行。

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世界大百科事典(旧版)内の高山右近の言及

【明石藩】より

…播磨国明石郡明石を城地とした譜代中藩。1585年(天正13)キリシタン大名高山右近友祥(ともなが)6万石が高槻から入封したが,87年追放された。当時の城地は明石川河口右岸の船上(ふなげ)城であった。…

【キリシタン大名】より

…畿内の武将は人間を超絶した唯一神の存在を知って転換期の現実生活における不安を克服した。八木城主内藤如安(ジョアン)は失脚後,小西行長(アウグスティノ)の部将となり1614年(慶長19)高山右近とともにマニラに追放された。右近は熱心に信仰を説き,蒲生氏郷(レオン),黒田孝高(よしたか)(シメオン),牧村政治らを改宗させた。…

※「高山右近」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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