花巻城跡(読み)はなまきじようあと

日本歴史地名大系 「花巻城跡」の解説

花巻城跡
はなまきじようあと

[現在地名]花巻市城内

南流する北上川の右岸豊沢とよさわ川が合流する地点の北西に位置する平山城跡。かつては西方から北上川縁に延びる比高二〇メートルほどの台地にあり、北から西は北上川の旧流路に臨んで断崖を形成していた。西側には幅三〇メートル以上の堀があり、南東斜面までめぐらされる。古くは鳥谷とやさき(鳥屋崎)城といい、稗貫ひえぬき郡に勢力を張った稗貫氏が城主であったと伝える(→稗貫郡。ただし文禄三年(一五九四)の稗貫状(聞老遺事)によれば、永享八年(一四三六)六月頃薄衣美濃守が「鳥谷崎」に陣を張ったとあるので、この頃まだ稗貫氏は居城していなかったと考えられる。天正一八年(一五九〇)稗貫広忠は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったため領地を没収され、当城には浅野長吉が入って家臣の浅野重吉を目代とした。広忠はいったん城の奪還に成功したが、翌一九年奥郡仕置軍により没落したという。

陸奥七郡を領した南部信直は当地を仙台藩に対する警備の一拠点と考え、天正一九年北秀愛を当城に置き花巻郡代とした。鳥谷ヶ崎城は花巻城と改められ、改修が施されたと伝える。秀愛は和賀・稗貫両郡に八千石を与えられ、城下町の整備などを進めたが、慶長三年(一五九八)没した。代わって父北松斎信愛が同じく郡代として入城した。関ヶ原合戦直後の同五年一〇月二四日、南部利直は亀森玄蕃に「鳥谷崎」在府を命じている(「南部利直書状」宝翰類聚)。また年未詳の八月二二日付同書状(石鳥谷光林寺文書)や一一月一七日付南部信直書状(石巻斎藤文書)から、南部氏が居城していたことがわかる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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