芳原村
よしはらむら
[現在地名]春野町芳原
内ノ谷村の西に位置し、北は柏尾山・烏帽子山で土佐郡神田村(現高知市)と境する。「吉原村」とも記す。「土佐州郡志」に「東限内之谷村馬地高崎越、西限西分村、南限西諸木、北限神田村、東西二十町余南北五十町余、其土多石」とみえる。烏帽子山の西方、白土峠を越える道は高知城下との交通路にあたる。
中世は当地の芳原城に拠った木塚氏が一帯を領有し、喜津賀と称された地の東分に含まれたと思われる。中世末、本山氏と長宗我部氏との吾川郡南部地方争奪の第一戦が、当地の光清城で戦われた。
芳原村
ほはらむら
[現在地名]津島町岩松 芳原
岩松村の枝村で、伊達氏入部以後に開発された。南は下畑地村に接する。宝永三年(一七〇六)の「大成郡録」に「慶長十九年引渡以後新田」とある。「宇和旧記」によると、万治二年(一六五九)に土佐藩との篠山境界論争が江戸で行われた時、槇川村、正木村(現南宇和郡一本松町)の両庄屋がともに江戸に下った。帰国後、槇川村庄屋は宇和島藩より当時沼地であった芳原を与えられ、新田に開いたとある。宇和島藩領。
寛文検地の石高は一八九石三斗三升三合三勺三才で、耕地面積の比率は田八八パーセント、畑一二パーセント。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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