菅原庄(読み)すがわらのしよう

日本歴史地名大系 「菅原庄」の解説

菅原庄
すがわらのしよう

現志雄町菅原・杉野屋すぎのや付近に比定される。能登国羽咋郡邑智おうち院の一部であったが、白河院政期に菅原保として住人弘行の私領となった。ところが弘行の年貢未進を理由にその権利を能登守藤原基頼が獲得、永久二年(一一一四)基頼は菅原在良を通し常灯料所として京都北野天満宮に寄進した(天永元年一〇月日「能登守藤原基頼寄進状案」菅原神社文書、七月一六日「菅原ともすけ書状案」僧綱申文裏文書、嘉吉二年一一月日「中御門長者雑掌申状案」北野社家引付)

貞永元年(一二三二)四月二五日の北野宮寺政所下文(東京大学史料編纂所蔵)によると、北野社執行永勝は「割分年貢京定弐拾斛、庄本斗定、永宛置常灯用途」の菅原庄を改めて立券、庄務を昌宗、本常灯の奉行を永勝の婿覚禅と定めた。永勝没後、昌宗は覚禅を養子として預所職を譲渡、覚禅は当庄をめぐる菅原公輔との相論の沙汰や庄務のための下向などもしている。しかし建保三年(一二一五)の火災により当庄の関連文書を焼失したのを期に昌宗が預所職の譲渡を取消したため覚禅との間で相論となった。覚禅死後の貞永元年(一二三二)四月、ようやく嫡弟有禅が子孫に至るまで常灯用途の米二〇石収取を認められた。承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文によると、立券は元暦二年(一一八五)、承久三年の田数は二三町四段余。また当庄新常灯をめぐり執行法眼承賀と貞禅との間に相論が起こったが、文永四年(一二六七)七月に承賀の奉行が認められ、同年一一月には貞禅が重ねて訴訟に及んだが承賀の奉行には変更がなかった(同年七月二六日・一一月一二日「天台座主尊助法親王令旨」北野神社文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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