萩園村(読み)はぎそのむら

日本歴史地名大系 「萩園村」の解説

萩園村
はぎそのむら

[現在地名]茅ヶ崎市萩園

西の相模川と東の小出こいで川に挟まれた平坦な自然堤防上にあり、南は今宿いまじゆく村に接し、小出川を境に西久保にしくぼ村・浜之郷はまのごう村に対する。文永八年(一二七一)五月七日の道智(二階堂行氏)置文案(県史一)に「懐嶋与萩曾禰堺事」として「是非ゑのきとの河流をたゝして可用之」とあり、川を境に懐島ふところじまに接していた。小田原衆所領役帳には篠窪修理亮「百弐貫文 東郡萩曾禰」、石川源次郎「壱貫五百文 萩曾禰屋敷」とある。元禄郷帳には「(ママ)曾根村」とあり、天保郷帳は「古は(ママ)曾根村萩園村」とする。


萩園村
はぎそのむら

矢合やわせ町付近。妙興みようこう(現一宮市)末寺円光えんこう寺領。萩園村は嘉慶二年(一三八八)妙興寺領坪付注文(妙興寺文書)によると「円光寺敷地」と記される。延文四年(一三五九)宗暁置文(同文書)に「一、萩園村四至堺事、限東鈴置郷并円興寺・同正福庵等四壁竹、限南大道并八瀬市庭、限西保領河俣田、限北同前、為末代支証注之」とあり、東で同じ熱田社領鈴置すずおき郷と円興えんこう寺や正福しようふく庵の竹林と接し、南には大道が走り八瀬やばせの市庭があり、西および北は保領河俣田と接する一区画一八町を占めていた。


萩園村
はぎそねむら

[現在地名]飯岡町萩園はぎぞの

横根よこね村の西方にあり、南は海に臨む。萩曾根村とも書くことから、本来は「ハギソネ」という地名であったのであろう。慶長七年(一六〇二)の検地により田九町一反余・畑四町四反余、高一五〇石余を打出し、この取米一一四俵・畑永一貫八一九文(「年貢割付写帳」向後家文書)。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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