日本歴史地名大系 「曾根村」の解説
曾根村
そねむら
現小倉南区の東部、
曾根村
そねむら
- 兵庫県:高砂市
- 曾根村
中筋村の南、
慶長国絵図に曾禰村とみえる。慶長五年(一六〇〇)池田輝政(姫路藩)領となるが、正保(一六四四―四八)頃は因幡鳥取藩領と幕府領の相給で、幕府領分は三代官の支配地に分れていた(正保郷帳)。鳥取藩領分は寛文二年(一六六二)福本藩池田氏領、同六年旗本池田領となり、慶応四年(一八六八)再び福本藩池田氏領となった(寛文四年「池田政直知行目録写」池田家文庫など)。幕府領分は宝永五年(一七〇八)相模小田原藩領を経て(寛保三年「年貢米につき口上書」高砂市蔵など)、延享四年(一七四七)三卿の一橋領となり幕末に至る(「一橋家領知高帳」一橋徳川家文書など)。
曾根村
そねむら
現町域の東端、
曾根村
そねむら
西川右岸の自然堤防上に形成された村落。北は当村枝郷の
曾根村
いばらそねむら
- 新潟県:白根市
- 曾根村
永禄年間(一五五八―七〇)信州村上氏滅亡後、旧臣小林仁兵衛・五十島庄左衛門らが来村し、清水に居住と伝える(古事集草記)。元亀年間(一五七〇―七三)あるいは天正一〇年(一五八二)頃上杉氏の臣で信州の人、関根三郎左衛門(三左衛門とも伝える)が中使として赴任、本田一五〇苅・新田一二〇苅・野地屋敷一軒半前を与えられて、近傍の支配と開発をつかさどったといわれる(「由緒書」関根家文書)。同一三年一一月一〇日の山吉景長安堵状写(関根伸行氏所蔵文書)に「小吉条いはらそね村中使之事」とみえ、本田一五〇苅・新田一二苅・野地屋敷などが関根孫八郎に安堵されている。
曾根村
そねむら
曾根村
そねむら
曾根村
そねむら
曾根村
そねむら
- 長野県:飯山市
- 曾根村
慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に初見。村高は八七石四斗五升で、以後ほとんど変化はない。天和二年(一六八二)の寺社領并由緒書(西敬寺蔵)に諏訪宮高一石とある。
宝暦一二年(一七六二)曾根・
飯山藩は延享元年(一七四四)曾根・
曾根村
そねむら
- 兵庫県:小野市
- 曾根村
曾根村
そねむら
- 大阪府:豊中市
- 曾根村
豊中台地南端の傾斜地から低地にかけて村域があり、集落(現曾根西町一丁目)は村域の西端に位置して、
曾根村
そねむら
愛知川右岸、
曾根村
そねむら
曾根村
そねむら
吉井川と
文化年間の「岡山藩領手鑑」によると、本村の直高二〇六石余、枝村は直高一九七石余でいずれも蔵入。本村の二口高二五四石余・残高二二〇石余、反別田九町二反余・畑六町五反余、家数三二、うち
曾根村
そねむら
曾根村
そねむら
曾根村
そねむら
曾根村
そねむら
曾根村
そねむら
曾根村
そねむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報