日本歴史地名大系 「稲沢市」の解説 稲沢市いなざわし 面積:四八・四五平方キロ濃尾平野のほぼ中央、県の北西部に位置し、東は青木(あおき)川・五条(ごじよう)川の旧河道を境に一宮市・西春日井郡春日(はるひ)村・清洲(きよす)町、西は日光(につこう)川・三宅(みやけ)川を境に尾西(びさい)市・中島郡祖父江(そぶえ)町・平和(へいわ)町、南は海部(あま)郡甚目寺(じもくじ)町・美和(みわ)町・佐織(さおり)町、北は一宮市に接し、旧中島郡を二分した南半分にあたる。市外の西方、約四キロの地を流れる木曾川の堆積作用により約一〇メートルの沖積層が形成されて、全般的に低地で、高地でも標高七メートルほどである。土質は砂質シルトがほとんどで、西部の日光川に近づくほど砂質が多くなる。「徇行記」に「まつち」(真土)としばしば表記され、農耕に適した土質であった。現在は住宅・工業地域として急速に変貌を遂げつつある。地名は、明治二〇年(一八八七)稲葉(いなば)村と小沢(こざわ)村が合併して稲沢村となった時に生れた。〔原始〕弥生前期の清水(しみず)遺跡・大塚(おおつか)遺跡、後期の重本(しげもと)・横地(よこち)、如来(によらい)、琵琶戸(びわこ)、丹波(たんば)、附島(つけしま)、寺脇(てらわき)、中花の木(なかはなのき)、流(ながれ)の遺跡などは、三宅川・青木川などの自然堤防上にあり、規模が小さく、平安・鎌倉時代まで続く複合遺跡である。古墳は性海(しようかい)寺の大塚古墳がある。中期の円墳であろう。〔古代〕律令制の施行により、国・郡・里制が布かれると、市域は尾張国中島郡に属した。国司の政庁国衙が当市内の松下(まつした)に設置され、国司の初見は壬申の乱で活躍した小子部連鉤で(日本書紀)、郡司は中島連東人などがみられる(尾張国正税帳)。矢合(やわせ)に国分寺が設置された。郡の下に郷・保があり、中島郡には美和(みわ)・神戸(かんべ)・拝師(はやし)・小塞(おぜき)・三宅(みやけ)・茜部(あかなべ)・石作(いしづくり)・日野(ひの)・川崎(かわさき)の九郷があった(「和名抄」元和本)。高山寺本では神戸がなく、日野が日部(くさかべ)となっている。また郡と郷の間に条がおかれ、中島郡は南北の二条に分れていた。時期は下るが、浄金剛(じようこんごう)院領千世氏(ちようじ)庄の所在を記した弘安五年(一二八二)坪付注進状案(醍醐寺文書)によると、南条(なんじよう)には三宅郷・石作郷・草部(くさかべ)郷、北条(ほくじよう)には拝師郷・尾塞(おぜき)郷・美和郷・河崎(かわさき)郷が含まれていた。当市地域はほぼ南条を含み、北条の河崎郷の南部をも含んでいた。保は草部保・益田(ました)保・山口(やまぐち)保があった(醍醐寺文書)。七―八世紀代の寺院跡に東畑(ひがしばた)廃寺がある。条里制遺構は三宅川の南側、当市の東部に残り、小字名として井之口(いのぐち)町の六之坪(ろくのつぼ)・西大坪(にしおおつぼ)・東大坪、日下部(くさかべ)町の深坪(ふかつぼ)・坪(つぼ)がある。また三宅川北の稲島(いなじま)町にも二之坪(にのつぼ)・四之坪(よのつぼ)・中之坪(なかのつぼ)の小字名がある。荘園は弘福寺・東大寺領が中島郡内にあったが(東寺百合文書、東大寺文書)、所在地は比定できない。 稲沢市いなざわし 2005年4月1日:稲沢市が中島郡祖父江町・平和町を編入⇒【祖父江町】愛知県:中島郡⇒【平和町】愛知県:中島郡⇒【稲沢市】愛知県 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「稲沢市」の意味・わかりやすい解説 稲沢〔市〕いなざわ 愛知県北西部,濃尾平野中央部にある市。市名は稲葉村と小沢村の合併による村の成立にちなむ。1955年稲沢町,千代田村,明治村,大里村が合体し町制施行。1958年市制。2005年祖父江町,平和町を編入。中心市街地は国府宮。市の東方約 1kmに尾張国衙(こくが)の跡,南西約 2kmには国分寺跡,その北西に国分尼寺の跡があり,古代には尾張国の政治の中心地であった。天正年間(1573~92)美濃街道の宿駅稲葉宿に本陣,脇本陣などが置かれ,大いににぎわった。平坦で土質がよく,米作やホウレンソウ,ダイコン,レンコンなどの野菜栽培のほか,苗木の育成も盛ん。名古屋市,一宮市に挟まれ,毛織物,金属工業の進出が著しい。国府宮(尾張大国霊神社)の裸祭は名高い。面積 79.35km2。人口 13万4751(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by