葛野荘(読み)かどののしょう

百科事典マイペディア 「葛野荘」の意味・わかりやすい解説

葛野荘【かどののしょう】

丹波国氷上(ひかみ)郡にあり,《和名抄》記載の古代葛野郷を継承する皇室領荘園。兵庫県氷上町(現・丹波市)西部に展開した。1159年の宝荘厳(ほうしょうごん)院領荘園注文案(東寺百合文書)に葛野牧とみえ,冷泉朝隆が領家鳥羽上皇御願寺の宝荘厳院(現京都市左京区)を本家とした。葛野牧・葛野荘が混用されるが,牧は1346年まで。1330年後醍醐天皇が同院の執務職と寺領を京都東寺に施入し,南北朝期には領家職が京都仁和寺保安寺に与えられた。以降保安寺の年貢滞納を巡り両者の争いが続くが,1386年保安寺が東寺に毎年51貫文を収めることで和解した。1461年までは年貢の進納が確認できる。地頭職は1423年山城石清水(いわしみず)八幡宮の宋清に与えられている。

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改訂新版 世界大百科事典 「葛野荘」の意味・わかりやすい解説

葛野荘 (かどののしょう)

丹波国氷上郡葛野郷(現,兵庫県丹波市氷上町)にあった葛野牧が荘園化したもので,1159年(平治1)の宝荘厳院領荘園注文によると,本家は宝荘厳院,領家は冷泉中納言朝隆で,本家年貢として米100石,油1石1斗が納められていた。南北朝期,領家職は室町准后から保安寺へと伝えられたが,1337年(延元2・建武4)以降領家が本家年貢の納入を怠ったため,本家宝荘厳院との間に長期にわたる相論が起こっている。本家側は下地の中分を提案したが領家側の受け入れるところとならず,結局1386年(元中3・至徳3)領家が本家に対し5貫文を毎年進納するということで和議が成立した。この相論の背景には,下司季正の年貢抑留といった事件もあったようである。この荘園には地頭も置かれており,地頭職の一部は,室町時代,石清水八幡宮の所有に帰していたらしい。
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