正式には
〈京都・山城寺院神社大事典〉
東寺の造営着工に関しては、延暦二三年(八〇四)四月八日に従五位下多治比真人家継が造東寺次官に任ぜられたというのが(日本後紀)、史料上に確認される最初のものである。しかし「類聚国史」には同一六年四月四日に「造西寺次官信濃守笠朝臣江人」の名がみえ、東・西両寺の造営が同時期に並行して着手されたという考え方からすれば、造東寺司も同一六年にはすでに設置されていたとみることができる。「東宝記」は「或記云」として延暦一五年に大納言伊勢人が造東寺長官に任ぜられたと記しているが、「帝王編年記」も同年藤原伊勢人が東西両寺の造寺長官に任命されたとしており、これを裏付ける。また「伊呂波字類抄」は西寺の創立を延暦六年としている。平安遷都以前に東・西両寺が存在していたことを示す史料が見いだせない以上、この記事も確証をもって裏付けることはできないが、平安遷都とほぼ同時期に西寺と並ぶ東寺の造営が着工されたと考えることは可能である。
東・西両寺の造営は、その規模の大きさゆえになかなかはかどらなかったようである。造営に要する長大用材に関して、国家に収公された伊賀国山林において「巨樹直木」の伐採が許可されたのは、延暦一九年四月九日のことであった(類聚国史)。また弘仁三年(八一二)一〇月二八日には、東大寺諸仏寺料としてあった封戸二千戸が造東西二寺とその関係諸司に造営費用の財源として配転支給され、また二月二七日には、桓武天皇の皇女布勢内親王の墾田七七二町が両寺に施入された(「日本後紀」など)。このうち伊勢国
顕教に重点をおく最澄と密教最勝を主張する空海との立場の違いは、国家宗教としての天台・真言の対立となって表面化する。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市南区九条町にある寺。東寺真言(しんごん)宗の総本山。正しくは金光明(こんこうみょう)四天王教王護国寺秘密伝法院(略して教王護国寺)という。本尊は薬師如来(にょらい)。794年(延暦13)の平安遷都に伴い、王城鎮護のために羅城(らじょう)門の左右に2か寺が建立され、それぞれ東寺(左寺、左大寺とも)、西寺(さいじ)(右寺、右大寺)と称した。東西両寺の造営が開始されたのは796年ごろで、大納言(だいなごん)藤原伊勢人(いせんど)が造寺長官に任命された。しかし、そのうちの東寺が皇族・貴族から庶民に至る広い信仰を集めるようになったのは、823年(弘仁14)に嵯峨(さが)天皇が東寺を弘法大師(こうぼうだいし)空海に勅賜し、当寺が真言密教の根本道場となってからである。
空海は、806年(大同1)唐より帰国後、真言密教の布教に努め、819年から高野山(こうやさん)に伽藍(がらん)を建立、金剛峯寺(こんごうぶじ)を開いた。このころより比叡山(ひえいざん)の延暦寺(えんりゃくじ)にあって顕教を説いていた最澄(さいちょう)と対立。嵯峨天皇はその調停として両者の教学を公認するとともに、空海に東寺を与えた。空海は、東寺の住僧に真言宗僧以外の僧を交えぬよう要請して認められた。それまでのあらゆる官寺は諸宗兼学を旨としており、一宗による官寺の独占は画期的なことであった。以後日本の仏教は官寺仏教から宗派仏教へと大きく変貌(へんぼう)していく。空海は東寺に五重塔や講堂を建立して寺観を整えたが、835年(承和2)空海の没後、真言宗の信仰と教学の中心は高野山に移り、東寺はやや衰えをみせる。それでも天皇家の国忌がたびたび修されるなど、官寺としての地位は他寺にぬきんでていた。平安時代末ごろになると、寺堂の荒廃が進み寺領荘園(しょうえん)の支配も緩みがちとなった。そこで勧進僧(かんじんそう)文覚(もんがく)(俗名遠藤盛遠(もりとお))は、空海由縁の京都高雄山(たかおさん)神護寺(じんごじ)の再興を果たした勢いで東寺再興を志した。その進言に応じて、後白河(ごしらかわ)院は1189年(文治5)に播磨(はりま)国(兵庫県)を修造料国にあて、また鎌倉開幕まもない将軍源頼朝(よりとも)も、文覚の諸国での勧進活動を大いに支援した。1197年(建久8)ごろまでに寺堂の再興事業はほぼ完成したが、1199年(正治1)の頼朝の死により文覚は失脚し、復興事業は中断された。
13世紀中ごろ以降、行遍(ぎょうへん)らの活躍で、全国にあった広大な寺領荘園の支配が好転し、その後1285年(弘安8)に五重塔の再興を果たした大勧進願行上人(がんぎょうしょうにん)憲静なども登場して、中世においては東寺は経済的にも大いに安定した。南北朝・室町時代は、たび重なる戦乱に巻き込まれて寺堂を焼亡することもあったが、公家(くげ)・武家および民衆の尽力でそのつど再興された。しかし、1486年(文明18)の京都徳政一揆(いっき)のとき、土一揆勢が当寺に立てこもって放火したため、金堂以下ほとんどの建物が灰燼(かいじん)に帰した。豊臣(とよとみ)秀吉は1591年(天正19)に山城(やましろ)国内の2000石余を寺領として安堵(あんど)。続く徳川幕府もそれを朱印寺領として認めるとともに、五重塔をはじめ諸堂を再興した。明治期には、神仏分離、廃仏棄釈によって多くの塔頭(たっちゅう)が廃された。明治初年に真言宗の総本山となったが、のち諸派と分離し、1974年(昭和49)東寺真言宗が結成され、その総本山となる。空海のときに始められた後七日御修法(ごしちにちのみしほ)は毎年1月8~14日に全真言宗合同のもとに厳修されている。東寺は官立護国寺、密教道場に加えて大師霊場でもある。空海の住房であった西院(さいいん)にはもと不動明王が祀(まつ)られていたが、鎌倉時代に前堂に空海の像が安置されると、大師堂、御影堂(みえいどう)とよばれるに至った。現在の建物は1380年(天授6・康暦2)の再建であるが、そのころから大師堂に空海の徳を慕う多くの人々が参詣(さんけい)するようになった。いまでも毎月21日の命日に大師堂で行われる御影供(みえく)(正御影供は4月21日)は「弘法さん」とよばれて大ぜいの参詣者でにぎわう。
[金岡秀友]
建造物には創建当初のものはないが、南大門から金堂、講堂、食堂(じきどう)と一直線に並ぶ伽藍(がらん)配置は奈良の諸大寺の伝統を受け継いでいる。五重塔(国宝)は総高約55メートル、日本の塔のうち最高最大のものである。現在の塔は1644年(寛永21)徳川家光(いえみつ)の寄進により再建されたもので、初層内部の板壁には真言八祖像、天井には花文が極彩色で描かれている。そのほか建造物では金堂(桃山時代)、大師堂(室町時代)、蓮華(れんげ)門(鎌倉時代)が国宝に、講堂(室町時代)、灌頂(かんじょう)院(江戸時代)などが国重要文化財に指定されている。寺宝は、空海が唐から持ち帰った多くの遺品をはじめ、平安時代以来の彫刻、絵画、工芸、文書などおびただしい数に上り、国宝、国重要文化財も非常に多く、仏教美術の宝庫といわれる。講堂内には中央に五如来(にょらい)像、東方に五大菩薩(ぼさつ)像、西方に五大明王(みょうおう)像、東西に梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)像、四隅に四天王像(以上すべて国宝)の計21尊を安置。その配置は空海が密教の理想を具現しようとしたものとされ、また諸像は密教彫刻最古の傑作として重んじられている。大師堂には不動明王像、僧形八幡(はちまん)神像、女神像、神像(以上国宝)など、食堂には唐から請来(しょうらい)された兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)像(国宝)などの名品を安置している。絵画では五大尊像、真言七祖像、両界曼荼羅(まんだら)図、十二天屏風(びょうぶ)など、工芸品には海賦蒔絵袈裟(かいふまきえけさ)箱、犍陀穀糸(けんだこくし)袈裟、紫檀(したん)塗螺鈿(らでん)装舎利輦(しゃりれん)のほか、密教法具(金剛盤(こんごうばん)、五鈷鈴(ごこれい)、五鈷杵(ごこしょ))など、書では「風信帖(じょう)」の名で知られる弘法大師筆尺牘(せきとく)、最澄筆「弘法大師請来目録」などが国宝に指定されている。また、東寺の寺史『東宝記(とうぼうき)』(国宝)や、かつて東寺が所蔵していた2万点余の文書「東寺百合文書(ひゃくごうもんじょ)」は古代・中世史研究に不可欠の史料として重視されている。「東寺百合文書」は2015年(平成27)、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産(現、世界の記憶)に登録された。
なお、塔頭の観智(かんち)院は後宇多(ごうだ)天皇により創立されたもので、桃山建築の客殿は国宝である。東寺は、1994年(平成6)世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。京都の文化財は清水寺など17社寺・城が一括登録されている)。
[金岡秀友]
東寺に対して年貢、公事(くじ)、雑役(ぞうやく)などを負担する末寺、荘園、散在所領、造営料国、散所(さんじょ)などをさす。
末寺には、金剛峯寺、弘福寺(ぐふくじ)、珍皇寺(ちんのうじ)、善通寺(ぜんつうじ)、曼荼羅寺(まんだらじ)、法雲寺(ほううんじ)などがあり、東寺の法会(ほうえ)の供物や饗料(きょうりょう)を勤仕していた。
東寺草創期の荘園所領は、伊勢大国(いせおおくに)荘・川合(かわい)荘、摂津垂水(せっつたるみ)荘、丹波大山(たんばおおやま)荘、東寺寺辺水田などで、のち尾張大成(おわりおおなり)荘を加えて、これらの荘園は平安時代末期には長者渡領(ちょうじゃわたりりょう)となり、その後、荘務権は執行(しぎょう)そして供僧(ぐそう)へと移っている。ついで中世における寺領増加の動きは次の三つに分けられる。第一は、仁和寺菩提院(にんなじぼだいいん)行遍(ぎょうへん)の働きかけによる宣陽門院(せんようもんいん)、仁和寺御室(おむろ)の所領寄進である。大和平野殿(やまとひらのどの)荘、伊与弓削島(いよゆげしま)荘、安芸新勅旨田(あきしんちょくしでん)、備前(びぜん)鳥取荘(のち丹波野口荘にかわる)、若狭太良(わかさたら)荘などが供僧料荘にあてられ、それによって十八口(じゅうはっく)供僧の基礎となる衆会(しゅうえ)組織が発足した。第二は、鎌倉後期から南北朝期にかけての公家・武家による供僧・学衆の新たな設置とその料荘の寄進である。後宇多(ごうだ)院は廿一口(にじゅういっく)供僧・学衆の新補とあわせて、山城拝師(やましろはいし)荘・上桂(かみかつら)荘・八条院町(はちじょういんのちょう)、播磨矢野(はりまやの)荘、常陸信太(ひたちしだ)荘を寄進、後醍醐(ごだいご)天皇は勧学会衆に宝荘厳院執務職(ほうそうごんいんしつむしき)を、講堂・灌頂院(かんじょういん)護摩供僧に最勝光院(さいしょうこういん)執務職を、不動堂不断護摩供僧に大山・太良・備中新見(びっちゅうにいみ)各荘地頭(じとう)職をあてた。両執務職に伴うおもな荘園は、宝荘厳院が近江三村(おうみみむら)荘・速水(はやみ)荘、丹波葛野(かどの)荘、遠江初倉(とおとうみはつくら)荘、阿波(あわ)大野荘、最勝光院が備中新見荘、周防美和(みわ)荘、肥前松浦(ひぜんまつら)荘、肥後神倉(ひごかみくら)荘、遠江原田(はらだ)荘・村櫛(むらくし)荘、京都柳原(やなぎはら)などである。南北朝期に入って足利尊氏(あしかがたかうじ)が鎮守八幡宮(はちまんぐう)に山城久世上下(くぜかみしも)荘地頭職を、大勝金剛供・千手供供僧に河内新開(かわちしんがい)荘(のち備後因島(びんごいんのしま)荘、摂津美作(みまさか)荘にかわる)を寄せ、足利義詮(よしあきら)が山城植松(うえまつ)荘地頭職を寄進している。第三は、鎌倉後期に始まり室町期に盛行した、大師信仰に基づく御影堂(みえいどう)への京都および山城散在所領の寄進である。
このように主として供僧・学衆料所を中心に形成されてきた中世東寺の荘園所領は、供僧・学衆が組織する十八口方、廿一口方、学衆方、最勝光院方、宝荘厳院方、鎮守八幡宮方、不動堂方、植松荘方などの機構によって支配されていた。そのほかにも、造営方の管領する巷所(こうしょ)・東西九条女御田(とうざいくじょうにょごでん)、三河山中郷などの造営料所や若干の長者・執行管領所領があった。これら諸荘には寄進後まもなく不知行(ふちぎょう)になったものもあるが、久世荘など畿内(きない)膝下(しっか)荘園所領は戦国期に至るまで経営が続けられた。
造営料国としては、鎌倉時代初期以来、播磨、肥後、丹後、佐渡、下野(しもつけ)、常陸(ひたち)などが寄せられたが、永代料国となったのは安芸国である。また、淀津(よどのつ)やそれにかわる近江湖上船木(ふなき)関の関銭も造営料として寄進されている。
散所については、1318年(文保2)後宇多院が、供僧・学衆に掃除料として散所法師(さんじょほうし)15人を寄進しており、以後も寺内の掃除・警衛などの雑役を勤めた。
[伊藤敏子]
『東寺文化財保存会編『大師のみてら東寺』(1965・美術出版社)』▽『佐和隆研著『秘宝東寺』(1969・講談社)』▽『太田博太郎他編「東寺と高野山」(『名宝日本の美術8』1981・小学館)』▽『赤松俊秀編『教王護国寺文書』全10巻・絵図(1960~71・平楽寺書店)』
京都市南区九条町にある東寺真言宗の総本山。現在の宗教法人名は教王護国寺であるが,教王護国寺を正式名称,東寺を通称とするというのは明治以降のことで,特殊な場合を除いて,平安時代以来一貫して東寺という名称が用いられており,それが正式の名称であった。
創建の時期は明らかではないが,794年(延暦13)の平安奠都とともに,西寺に対して羅城門の東に建てられたものと考えられる。823年(弘仁14)嵯峨天皇は空海にこの寺を与え,50人の僧を置いて真言研修の道場とした。これが真言宗としての東寺のはじまりである。平安時代の東寺の最大の行事は後七日御修法(ごしちにちみしゆほう)であるが,このほか毎年恒例の御国忌(みこくき),さらには政府の命ずる恒例臨時の仏事祈禱が行われ,総じて官寺としての性格が強かった。東寺の宗教活動が活発になるのは鎌倉時代になってからである。源頼朝は文覚の勧めに従って諸堂,仏像の修理を行わせるなど東寺の復興に力を尽くした。後白河上皇の皇女宣陽門院は深く真言密教に帰依し,その御願として大師堂(西院御影堂)において毎日朝昼夕の三時の勤行を行い,毎月21日には弘法大師御影供が営まれるようになった。これは東寺における中世的信仰の展開を示す画期的なことであるが,そのため女院は大和国平野殿荘をはじめいくつかの荘園を寄進し,供僧組織を確立した。この東寺再興の事業を引き継いだのは後宇多上皇,後醍醐天皇で,多くの荘園を寄進し,学衆組織を確立した。足利尊氏は源氏の氏神でまた武神でもある八幡神を尊崇し,東寺鎮守八幡宮を保護したので,以後室町幕府とも結びつきが深くなる。このころになると庶民の大師信仰が盛んとなるが,1486年(文明18)土一揆のため金堂,講堂などが焼失した。89年(延徳1)5月6日,講堂以下諸堂建立の官宣旨が下されたが,再建は講堂を除いてはほとんど行われず,また諸国の所領はすべてその支配を離れた。1591年(天正19)5月,豊臣秀吉から寺領として七条,八条,西九条などに2030石が安堵され,それは明治まで及んだ。また豊臣氏,徳川氏によって寺観も整えられたが,江戸時代になると毎月21日の〈弘法さん〉の縁日も盛んとなり,広く庶民の間に根ざした大師信仰として現在まで続いている。
執筆者:上島 有
たびたび天災や兵火にみまわれたため,創建当初の建築は残らず,すべて鎌倉時代以降の再建であるが,密教美術史上きわめて貴重な絵画,彫刻をはじめ,膨大な古文書類(東寺文書)も伝存している。
伽藍は九条通りに面して南大門(1601,重要文化財)を構え,北に一直線に金堂(1603,国宝),講堂(1491,重要文化財),食堂を並べ,南東に五重塔(1644,国宝),南西に灌頂院(1634,重要文化財)を配し,築地塀をめぐらせて東辺には慶賀門と東大門,北辺に北門(鎌倉時代,いずれも重要文化財),西辺に蓮華門(1191,国宝)の諸門を開ける。再建ではあるが,主要堂舎は奈良の諸大寺の伽藍配置を受け継いだ創建伽藍の旧位置を守っているとみられる。金堂は豊臣秀頼によって再建され,桁行5間梁間3間,一重裳階(もこし)つきの雄大な建物で,平面規模や内部空間の構成などは,創建時の伝統を踏襲したために復古的になっている一方で,裳階の組物に大仏(天竺)様三手先(みてさき)を用い,また禅宗(唐(から))様の細部も加味して,和様,大仏様,禅宗様の3様式が一体化してみごとに統一され,桃山時代の仏教建築の代表的遺構といえる。講堂は金堂と同じく創建時の位置に平面も旧規を守って再建されたもので,純和様。内部には21軀の仏像が安置され,密教の根本義を示す曼荼羅の構成を示し,うち15軀が創建時のものと推定され国宝に指定。中尊の不動明王をはじめとする五大明王像5軀は量感に満ちた形相に力強さがあふれ,密教忿怒(ふんぬ)像としてもっとも古く,かつ優れたものとされる。五大菩薩座像の中尊を除く4軀や梵天座像・帝釈天半跏像,四天王立像も平安初期密教像として注目される遺例である。五重塔は,江戸時代のものとしては珍しく和様の手法を守り,木割太く,比較的安定感に富む。総高は55mに及び,現存する日本の塔の中でもっとも高い。
灌頂院は伝法灌頂や結縁(けちえん)灌頂など密教の儀式を行う道場である。創建時は正堂と礼堂(らいどう)からなる双堂(ならびどう)の形式であったが,のちにひとつの屋根で両堂を覆うようになった。現存のものは桁行7間,梁間7間のうち前面2間通りが外陣,つぎの1間通りが中陣,奥の4間が内陣となり,外陣は礼堂,内陣は正堂にあたり,旧規を保っている。食堂の西側に築地塀で囲まれた西院があり,その中心建物が大師堂(国宝)である。ここは空海の住房と伝え,不動明王座像(国宝,平安前期)を本尊とすることから不動堂と呼ばれ,のち弘法大師座像(重要文化財,康勝作,1233)をも安置したので大師堂あるいは御影堂とも称されるようになった。建物は後堂(1380),前堂(1390)および中門からなり,檜皮(ひわだ)葺き屋根をもつ住宅風建築。後堂は桁行5間,梁間2間の母屋に周囲1間通りの化粧屋根裏の庇をめぐらせ,さらに北に孫庇を付加しており,当時の寝殿造住宅の五間四面北又庇寝殿の平面を伝え,内部の不動堂は寝殿の塗籠(ぬりごめ)に当たっている。軸部は丸柱に舟肘木(ふなひじき),疎垂木(まばらだるき)と簡素なつくりで,建具には蔀戸(しとみど)と妻戸を用い,四周には高欄付の縁をめぐらせるなど,中世における寝殿の形式を内外ともによくとどめた住房建築である。なお中門は寝殿造の中門廊に相当し,外観にいっそうの変化を与えている。大師堂内に仮安置されている僧形八幡神・女神座像(3軀)は,鎮守八幡の神体として空海在世当時の作と伝え,現存神像中最古でともに国宝。ほかに彫刻では,毘沙門堂に安置されるが,もと羅城門の楼上にあったといわれ,異国風の容貌,服装をした兜跋毘沙門天(とばつびしやもんてん)立像(唐代)が国宝。
絵画では《真言七祖像》(唐代および平安前期),《五大尊像》(伝覚仁筆,平安後期),《十二天屛風》(伝宅磨勝賀筆,鎌倉前期),《両界曼荼羅》(平安前期)がいずれも国宝。《真言七祖像》はそのうち五祖像が唐の李真筆で,空海が請来し,他の2祖は帰国後描かせたとされる。《両界曼荼羅》は《伝真言院曼荼羅》と呼ばれ,絹本彩色の現存曼荼羅中,最古のものである。このほか《弘法大師行状絵詞》(鎌倉後期),《蘇悉地儀軌契印図(そしつじぎきかいいんず)》(白描図像,唐代),《両界曼荼羅》(敷曼荼羅,平安後期)や多くの密教図像がある。書跡では《風信帖》と呼ばれる《弘法大師筆尺牘(せきとく)》,最澄筆《空海請来目録》,《類聚名義抄》(鎌倉時代),東寺の歴史を記す《東宝記(とうぼうき)》(室町前期)や後宇多天皇宸翰などが国宝。
工芸品では〈海賦蒔絵袈裟箱(かいぶまきえけさばこ)〉(国宝,平安中期)や伝弘法大師請来の密教法具(国宝,金剛盤,五鈷鈴(ごこれい),五鈷杵(ごこしよ))などがあげられる。なお子院の観智院客殿(国宝,1605)は東南隅の座敷に床と違棚を設け,北隣の部屋には付書院と帳台構(ちようだいがまえ)をもち,書院造建築の典型である。
執筆者:谷 直樹
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…丹波国多紀郡にあった東寺領荘園。現在の兵庫県多紀郡丹南町。…
…一方,四辻宮は90年に妙円にも上桂荘を与え,これが領主権をめぐる相論の原因となった。1313年(正和2)後宇多上皇は上桂荘を東寺に寄進。以後,南北朝初期にかけて,東寺,山門東塔北谷衆徒,武家被官などが入り乱れて領主職相論を展開,悪党の活躍も見られた。…
…京都市南区の東寺(教王護国寺)の塔頭(たつちゆう)の一つ。後宇多法皇は空海に深く帰依し,1308年(徳治3)2月,東寺興隆のための6ヵ条の立願を行った。…
…822年2月,東大寺に灌頂道場を建立して鎮護国家の修法道場とした。823年正月,東寺を賜り真言密教の根本道場とし,同年10月には真言宗僧侶の学修に必要な三学論を作成して献上し,50人の僧をおいて祈願修法せしめた。824年(天長1)少僧都,827年大僧都。…
…平安京の右京九条一坊(現,京都市南区)にあった官寺。羅城門をはさんで,左京の東寺と対称の位置にあり,右大寺ともいう。797年(延暦16)以前に造寺司が置かれ,造営を開始する。…
…1173年(承安3)落慶法要が行われ,豪華をきわめた寺院であったが,1226年(嘉禄2)6月4日大火にあい,以後衰退の一路をたどった。1326年(嘉暦1)3月18日,後醍醐天皇は当院およびその荘園を挙げて東寺に寄進,以後建春門院および高倉院の忌日には,東寺御影堂で不断光明真言が勤修されることとなった。【上島 有】。…
…その後,女院は近衛家実の女長子を養子とし,26年(嘉禄2)入内させて後堀河天皇の中宮にするなど,家実と結んで政局に介入,九条道家と競ったが敗退し,長子は29年(寛喜1)院号宣下,鷹司院と称した。 女院はすでに16年(建保4)信頼する仁和寺菩提院の行遍を通じ,別当三位家領阿波国宍咋荘を高野山蓮華乗院に寄進していたが,政争に敗退後,行遍への信任を強め,38年(暦仁1)庁分大和国平野殿荘,翌39年(延応1)別当三位家領伊予国弓削島荘を東寺に,同じく周防国秋穂二嶋荘を菩提院に寄進,東寺に供僧設置をはかる長者行遍を援助した。その後も女院は仏舎利,経論,仏像を西院御影堂に寄せ,42年(仁治3)安芸国新勅旨田,翌年,備前国鳥取荘を寄進,東寺に心を傾けた。…
…摂津国豊島郡榎坂(えざか)郷(現,大阪府吹田市西部と豊中市の一部)内にあった東寺領荘園。田数は約90町。…
…忠救,定伊,栄増など歴代の東寺執行が書きついだ記録。1330年(元徳2)から1751年(宝暦1)にわたるが,中途断続している。…
…中世の東寺領荘園の一つ。現在の岡山県新見市の北西部から阿哲郡神郷町の北東部にわたる広大な地域を占める。…
… 942年(天慶5)ころ正一位の神階が授与され,《延喜式》では名神大社に列し,祈年・月次・新嘗の案上ならびに祈雨の官幣にあずかり,後三条天皇以降歴代天皇の行幸があった。平安初期には東寺の鎮守となり,中世以降,還幸祭には御旅所より神輿が一時同寺に立ち寄り,寺では法会,神供,獅子舞を行ったが,その費用は京都下京の氏子に地子銭として課されていた。応仁の乱に荒廃し,1499年(明応8)ようやく社殿は復興し,1589年(天正17)さらに豊臣秀吉は社領106石を寄せ,社殿の修理を行った。…
…京都の〈弘法市〉と〈天神市〉は江戸中期ごろから定期化したと考えられ,今は各地から業者が集まる。東寺境内での毎月21日(弘法大師の命日)の弘法市は,1500の露店が並び,12月はとくに〈しまい弘法〉といわれる。北野天満宮の毎月25日(菅原道真の命日)の市も〈天神さん〉としてにぎわい,とくに1月は〈初天神〉と呼ばれる。…
…この木彫技法の展開は,他のどの国の木彫技法にもない独特の発展を示すもので,その意味でまさに日本的な彫刻の完成への道をたどるものといえよう。
[密教美術の開花]
806年(大同1)唐から真言密教をもたらした空海は,東寺を得てこれを教王護国寺とし,その講堂に彼独自の発想で彫像による一種の曼荼羅(まんだら)を作る。その完成は彼の没後の839年(承和6)であるが,この21尊にのぼる彫像のうち十数体が今日もほぼ造像時の姿をとどめており,わが国密教彫刻の現存最古の遺例として珍重されている。…
…皇室の御願寺として壮麗をきわめた当院も,鎌倉時代を通じて衰退の道をたどったものと思われる。1330年(元徳2)には後醍醐天皇が当院を東寺に寄進,その支配下の所領はすべて東寺領となるが,そのころ堂舎はほとんど朽ちはて敷地だけであったらしい。45年(興国6∥貞和1)東寺の供僧学衆は合同して評議を行い,この宝荘厳院執務職得分を勧学会料にあてることにした。…
…これらは金剛界曼荼羅の東方阿閦如来円中の3尊であり,この円の本質は,金剛杵(こんごうしよ)をもって邪を破り,一念発起する金剛薩埵の徳にあり,これをもって金剛峯寺講堂像の中核としたところに,空海の深意がこめられている。 東寺では,空海入定後の839年(承和6)に講堂諸尊の開眼供養が行われた。現在講堂には,中央に大日を中心とした金剛界五仏,東に金剛波羅蜜を中心とする金剛界五菩薩,西に不動を中心とした五大明王が安置されている。…
…播磨国の中世東寺領荘園の一つ。現在の兵庫県相生市矢野町,若狭野町から旧相生市内に及ぶ範囲にあった。…
※「東寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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