日本歴史地名大系 「蒲生院」の解説
蒲生院
かもういん
中世にみえる院名。現蒲生町一帯および姶良町
建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)からは、蒲生院の在地構造がある程度判明する。同配符写は文永の役後に幕府の命によって筑前博多湾岸に石築地(石塁)を築く際のもので、各自の所領面積とそれに応じた石築地の負担すべき長さが記されている。これによると、総田数一四二町三〇〇歩、管轄者は弁済使左衛門入道法智、うち公田一一九町五段小。総田数の内訳は末丸(米丸の誤記か)一七町七段(郡司伊賀房行公)、蒲生院の主要部を占める
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報