蒲生院(読み)かもういん

日本歴史地名大系 「蒲生院」の解説

蒲生院
かもういん

中世にみえる院名。現蒲生町一帯および姶良木津志きづし平松ひらまつ脇元わきもとなどに比定される。単に蒲生とも記される。大隅国建久図田帳に蒲生院とみえ、総田数は一一〇町九段半、正八幡宮(現鹿児島神宮)領・経講浮免田・国方所当弁田からなる。正八幡宮領の本家は山城石清水いわしみず八幡宮、地頭は中原親能、半不輸地で正税官物は国衙納入内訳は御供田一二町六段・大般若田一町・寺田一四町五段・小神田三一町。経講浮免田二町(二段か)は不輸田。国方所当弁田(応輸田)の内訳は宮吉一町・万徳一七町三段・恒見つねみ七町九段半・公田二五町四段。

建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)からは、蒲生院の在地構造がある程度判明する。同配符写は文永の役後に幕府の命によって筑前博多湾岸に石築地(石塁)を築く際のもので、各自の所領面積とそれに応じた石築地の負担すべき長さが記されている。これによると、総田数一四二町三〇〇歩、管轄者は弁済使左衛門入道法智、うち公田一一九町五段小。総田数の内訳は末丸(米丸の誤記か)一七町七段(郡司伊賀房行公)、蒲生院の主要部を占める久得ぎゆうとく七二町一段小で、久得は本名久得(名主弥太郎清持)久富ひさとみ(北に比定され、名主西俣三郎清幸)久松(名主内村弥太郎清元)久末ひさすえ(名主七十房跡)の四名からなる。さらに法師丸二町三段(名主内村四郎信友)武友たけとも三町七段半(弁済使法智行公、下久徳に嶽友家がある)・今富一一町七段半(弁済使兼名主阿波房)脇本わきもと(現姶良町、弁済使兼名主三郎太夫吉本)・恒見一〇町小(名主孫太郎清持)・府社中臣(大宰府管轄の府社で二町二段か、大府御領御家人姫木太夫篤季)があり、寺田一三町の内訳は多守五町(弁済使阿波房成幸)・尺迦堂八町(預所卿法眼)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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